総会に参加して

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年5月 トピックス】

◆以前、総会の会場として使っていた日立の和疆館が使えなくなって、最近はアルカディア市ヶ谷(私学会館)が会場として行われるようになった。

交通の便が良い市ヶ谷駅から近く、アクセスが楽だ。

今回の参加人員は100名程度と小ぶりな総会になった。

配られた名簿をみると、参加者の大所は20期台だ。私もこの世代に入る。

以前は一桁台の先輩、10期台の先輩も多くおられた気がするが、参加する先輩方も徐々に減ってきた感があるのは致し方ない。

ご本人の体調もさることながら、奥方の状況によっても参加できない場合も増えてこよう。

そういう私も近く、膝の手術を受ける。

以前から気になっていたが30期以降の参加者が少ない。

また、社会人になって間もない若者と言葉を交わしたと思うのだが、何とか友達同士誘い合って来てくれないものか。

しかし、そういうわしも以前は私も今の若者と同様で、同窓会組織の鳳陽会との距離は遠かった。

私が鳳陽会を割と強く意識し始めたのは退職がきっかけだったように思う。

会社時代の人間関係が薄れ、むかし懐かしい人間関係、むかしの仲間との付き合いが一番落ち着く。

何も己を身を護る「防御服」を着て臨む必要はなく、筋肉を緩めたままの気楽な付き合いでよく、それが心地よい。

◆総会

総会の司会は大加瀬さん。49期の方だ。

会場が華やぐ。

支部総会では財務状況の説明があったが、台所は苦しいようだ。

事務局の手当削減、寄付金によっても、赤字体質は解消されておらず、家賃の安い事務所への移転も検討に入るとの話があった。

東京首都圏にある山大の同窓会組織で、事務所を構えているのは鳳陽会だけのようだ。

そろそろ経済学部の東京鳳陽会単体で事務所を持つ時代は無理が来ているのかもしれない。

この際、どうだ、理事長から話も出たように、経済学部単体から、学部を超えた同窓会事務所として運営するのも手かもしれない。

山大には総合大学として、学部の数が多いという強みがある。今回の参加者名後の来賓にも掲載されていたのは人文学部(鴻文会)、理学部(鴻理会)、医学部(霜仁会)、工学部(常盤会)の名前があったが、東京首都圏には他にも、教育学部、農学部、新しい国際総合科学部もある。

(経済学部出身のご主人を持つ教育学部出身の方も結構多い)

こうした合同の事務所として装いを新たに再出発するのも良い。

ゴルフコンペにしてもそうだ。

春と秋には鳳陽会のコンペがあるが、このコンペも現在「経済­=鳳陽会」単独で、2~3組ほどのゴルフ会だ。

他学部の同窓会にも声を掛け、合同コンペや各学部で対抗戦をやるのも面白い。

毎年秋に開催されている歴史散策・長州歴史ウォークでは他学部のほか、長崎大(瓊林会)や小樽商大(緑丘会)からも参加があるようだ。このように、各部を超えて、山大の枠を超えてというのもアリだ。

あるいは、鳳陽会の事務所に大学の東京事務所機能を兼ねることも考えてはどうか。

山口大学本体の東京事務所は10年ほど前、田町の東京工大の施設にあった。そこに他の地方国立大20校ほどと一緒に、東京の出先として事務所を構えていたが、再開発で退去して久しい。

他の私大では東京駅の前に東京事務所を持つ大学も多い。学生諸君の就職活動の立ち寄り先として使っても良い。

収支改善のための会費値上げの話は出なかった。

会費はかなりの間据え置きが続いているため、会費の値上げも収支改善の選択肢のひとつにはなる。

しかし会費の値上げは最後の最後だろう。

会費意を上げて退会者がドッと出ては元も子もない。

◆鳳陽先生のご子孫

今年の総会の特別ゲストは上田鳳陽先生のご子息だ。

これまで上田鳳陽先生のご子孫については、明らかになっていなかった。

鳳陽先生といえば山口大学建学の祖。顔写真や似顔絵も残っていなければ、広く知られた本もなく、このため鳳陽先生の研究者もほとんどいない。

鳳陽会の会報には毎年鳳陽先生の命日12月8日に学長以下、山大関係者で乗福寺にある鳳陽先生の墓石にお参りに行かれる記事が掲載される。

鳳陽先生の法要だ。

ゲストの誠一さん(上田家第8代)のスピーチでは、松山の住人となった誠一氏の曾祖父の方が、「山口からお声がかかり、たびたび山口に行っていた」との話が聞かれた。

おそらく山口高商からの声掛けだったのだろう。

大学からの来賓である谷村学長や有村学部長も上田家との交流の復活を喜んでおられた。

・七村さんのスピーチは若者向け起業と社会貢献の話で、若者に聞いてほしいスピーチだった。

起業をし、大きく儲け、大きな社会貢献をしてほしい旨。

具体的には母校山大基金への寄付を呼び掛けるものだ。

また、長期にわたる寄付講座を担当するタナベコンサルティングの大裏氏のプレゼンに次に、岡山からは内藤幹事さん。

内藤さんは以前から東京支部のホームページにも投稿がある。

経済学、経営学に始まり、投稿の題材は幅広い。

また、学生時代当時のことを良く覚えておられるのが感心だ。

・若手でスピーチをしたのは64期・青年実業家の窪井君と安平君。

彼は七村さんを目標に掲げている。

会場では七村さんと名刺交換し、話し込んでいる姿が目にはいった。

また、この春新社会人となった大学院・修了の王さん、新人男性二人(東芝、三菱UFJ)が続いてスピーチ。

◆余興

東京支部の余興の名物となったじゃんけん大会。

山口の銘酒が景品となっている。

最近、山口の酒は評判が良く、獺祭、東洋美人、貴、天美など、ブランドとなった銘柄も多い。

じゃんけんで勝っての銘酒のゲット。

会費の半分を取り戻した方もいるだろう。

山大発の酒といえば、長州学舎。

私も山大生との仲間内の飲み会では山大のオリジナル銘酒「長州学舎」を持参することがあるが、この酒は一般の酒屋では手に入らない。

山大の生協を通じてしか手に入れることができない。

山口のアンテナショップ「おいでませ山口館」にも置いていない。

長州学舎も並べてほしいものだ。

また、宮城の内ケ崎酒造が作っている、そのものズバリ「鳳陽」という酒がある。

この酒もあれば、じゃんけん大会がさらに面白くなりそうだ。

私が欲しいくらいだ。

◆校歌・寮歌

学長・学部長も法被姿で登壇の上、高唱。

山大、山大と連呼する山大学生歌

朗らかなメロディーの鳳陽寮寮歌

春を弔う落英か・・・で始まる山都逍遙歌

壇上からフロアーまで肩組見合っての大合唱となった。

鳳陽寮寮歌の際には、支部長さんが檄を発し、寮歌の後はエールで締めた。

手慣れたものだ。

寮歌といえば秋の日本寮歌祭がある。

寮歌祭には時々はテレビも入る。

今年の秋の日本寮歌祭も是非若者にも参加してほしいものだ。

寮歌祭へ参加したことがあるが、我々と交流のある長崎大・経済が大軍団で乗り込んできたことがあった。小樽商大も昨年に初参加。

寮歌祭には補助が出て格安で参加できた印象がある。

若者にも参加してほしい。

長崎大にも応援団出身者がいた。

小樽商大の後援会事務局長も応援団出身だ。

声の出し方、身振り・手ぶり、堂に入ったものだ。

鳳陽会にも応援団出身者が欲しいところだ。

毎年袴姿で校歌・寮歌のリーダーだった木村進先輩(学11期)が昨年の総会の一月後にお亡くなりになっている。

残念な話だ。

◆次は大阪

次回開催地は大阪。

東京から大阪へ支部長同士が握手。

今年の懇親会は夕方5時に始まり、終わったのは19時。

遠くから参加された来賓や各支部幹部の方にとっては、帰りの飛行機はなく、新幹線も乏しくなった頃にあたる。

2次会は会場から至近、昨年と同じ居酒屋だ。

あいにく外は雨。

しかし、明日は日曜だ。

遠方からの参加者や、受け付けを担当された若手の方々、約30名が集った二次会。

来賓の大学関係者、鳳陽会の重鎮などVIPの姿もあった。

また女性の皆さんの姿もあった。

肩ぐるしい総会の懇親会とは違い、笑いのこぼれる和気藹々とした交流が続いた。

(1975年卒 榎田悦朗)

万歳三唱!

お疲れ様でした。

慶喜公、その外れた思惑 ②鳥羽・伏見の戦い

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年5月 トピックス】

◆戦いの前夜、薩摩の挑発

討幕を目指していた薩摩は大政奉還で名目を失った。

西郷は討幕の口実を作らんがため、江戸の薩摩勢力に指示し、町荒らし、放火、挑発行為を行っていた。

これに業を煮やした佐幕派の庄内藩が三田に近い江戸の薩摩藩邸の焼き討ちを実行。

この話が大阪城に伝わったのが、慶喜が二条城から移った年の暮れの12月28日だった。

これを聞いた主戦派(会津、桑名、新選組)は沸き立ったという。

諸藩の江戸での「薩摩憎し」の情念を抑えきれず、翌慶応4年(1868年)1月1日、慶喜は討薩の表(ひょう)を著す。

慶喜は天皇のいる京都近郊での戦争を嫌い、決して戦端を開かないよう命じたとされる。

旧幕府軍の京都への進軍は、薩摩の勢力を京都から追い出し、慶喜自らが改めて上洛して新政府を立ち上げるための、露払いとしての軍事行動という位置づけで、会津、桑名などが京都をめがけて進軍した。

しかし、1月3日、薩長軍が発砲した。

旧幕府軍は、結局西郷の挑発に乗った形で鳥羽・伏見の戦いが始まった。

しかし何と、ここで幕府軍が敗れてしまった。

幕府側の読みでは幕府軍の圧勝する戦いのはずたったのに。

なぜあ。

もともと、戦闘は予定していなかった。そこへ薩長から攻撃を仕掛けてきたため、準備不足の幕府軍は大阪城に逃げ帰る。

どうする、慶喜。

ここで慶喜が徹底的に薩長軍と戦っていたら、事態は変わっていた

という識者が多い。

そうかもしれない。

しかし、慶喜は戦うことをしなかった。

薩長軍の奥には天皇がいる。

天皇がとられた形になっている。

ここで徹底的に戦えば、朝廷に向かって銃口を向けることになる。

ここで慶喜は恭順を選ぶ。兵を残したまま、江戸に戻り、朝廷への恭順を示した。1月6日、榎本武揚がいない開陽丸に乗り、海路、江戸へ。

慶喜は頭脳明晰で機をみるに敏であったために移り気に見え、育ちの良さからくる優柔不断もあったとされる。

その直後、朝廷は慶喜追討令を出すに至る。

慶喜は朝敵となった。

江戸の小栗が分析した両軍の比較がある。

京都進軍幕府総兵力 23700

うち(幕府直属軍の16400、及び会津・桑名など諸藩連合兵)

幕府直属軍は歩兵・騎馬・砲兵の編成。1兵1銃、銃はミニエール銃(照準装置付でライフリング入り)、

火砲はフランス式4斤山砲(4キロ砲弾、射程距離1000メートル)

対する薩長合同軍は6000

歩兵中心。

銃はゲベール銃(照準装置なし、ライフリングなし)

火砲は射程距離700メートル。

幕府が負ける筈はなかったのだが。

兵力について薩長が新式・近代武装で、幕府軍の装備が劣っていたという説は間違いのようだ。

また、慶喜の戦意が希薄だったために負けたというのも逆で、戦う意思のない幕府軍が(慶喜公上京の御先供のため薩長軍が道を譲り入京できるとの読みもあり、)狭い鳥羽街道、伏見街道を密集縦隊で行軍し、薩長から数度、十字砲火を浴びたために敗北、敗北したために戦意を喪失したのだ。

◆錦の御旗

1月4日、淀川北岸に翻った錦の御旗三本。

これが決定的な要因で、これによって慶喜公は腰砕けになったようだ。

そもそも「尊王」教育を父・徳川斉昭から刷り込まれていた慶喜は天皇への恭順の途を選ばざるを得なかったのだ。

(学23期kz)

「120」への拘り

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年5月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆以前トッピックスに投稿した時は100回目の献血を目指す話だった。看護師さんの勧めが背中を押した。
2025年4月には120回目の献血に。自分の中では少し拘ったものだ。

2021年5月1日、横浜港の客船でコロナの集団感染のニュースで始まったコロナ禍…
短期的な経済動向だけでなく、長期に、また社会的にも大きな影響を及ぼした。既に我々みんなが国から地方自治体から給付を受けたものは、天授でない。将来世代に問題を先送りし、その負担をその世代にお願いするものとなった。
一方、献血も5年に渡り、慢性的な不足の時期を送る事となった。

◆全血採血は次回まで2カ月の間隔制限を受ける。一方、血漿、血小板献血と言う成分献血になるとその制限は一挙に2週間と短いものになる。この事を熱心に解説、引導戴いたのは、常盤工業会(工)の先輩である。(3年置きに交流する山大岡山支部連合同窓会のメンバー)

成分採血すると定期的に自分の血液で自身の健康管理は出来る。その上、今喫緊に発生している慢性的血液不足にも役立つものだぞとの話。
中々、自分の様な市井の人は、世のために役立つことを簡単には出来ない。献血はある条件が整うと可能だ。

ある程度の健康体である事、大きな手術、多量の輸血を受けたことがないこと、常用する薬が献血に影響しないもの…
そうは言っても、加齢とともにそのハードルはだんだんと上がっていく。
自分自身も仕事が多忙な時期、血沈(比重)が足りず、何年も予備検査すら合格しない時があった。

◆時の周期は干支なども含め、12進法で進む。
献血1回目は教養学部時代、吉田キャンパスの献血バスで始まった。当時毎日新聞山口地方版で連載されていたのは、「花なき山の山かげに」(80年に向けて)である。

「120の拘り」は「時の12進法」である。

18の青い時の始まりが今は60代半ば、銀の時となった。これからも12進法を可能な限り、ゆっくり回していこう!
「花なき山の山かげに」は今年120年になる。

(岡山B)

経済学部前庭にある鳳陽寮・寮歌碑

明治32(1899)年、当時の国文学担当・佐々政一教授による作歌。

寮歌の中では非常に古く、百年以上も歌い継がれているものは全国的にも少ないとされる。

トランプ劇場に思う その④ 規制緩和とガイアツ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年5月 トピックス】

規制緩和の話は昔からまな板の上には乗るものの、どうも話が先に進まない。

今回トランプ政権が仕掛けてくるディールの際、過去にも焦点のひとつになったように、今回も自由化・規制緩和が問題になる可能性がある。

規制緩和については安部政権が「ドリルですべての岩盤規制を砕く」と表明し、世界の注目を集め、成長戦略の一丁目一番地とされたにも拘わらず、雲散霧消した。

現状は関係者の力関係、利害関係が一致し、いわば均衡状態にあるとする。この場合、日本国内の内なる力をもってして均衡を崩し、新たな均衡に移るのはなかなか困難だ。パワフルな「抵抗勢力」が介在するからだ。

こうした時には外からのチカラに期待したくなる。

情けない話だが、この際トランプショックを追い風に、自らできなかった規制緩和を進めるのも手だ。

◆コメが高い

コメが高く、ここ何か月もコメを買っていない。

輸入米でもいい。インディカ米でいい。

インディカ米は外地で食べ慣れており、チャーハンにして、たらふく食べたいのだが、なかなか容易に買えず、価格もどうしたこたか安くはない。

そもそも日本の政策当局の判断は生産者、サービス提供者に偏っている。

コメ、然り。

これはなぜか。

ここでは深く論じないが、供給者サイドを守る諸力に比べ、まず消費者を守る官庁が弱い。

米国では財務省、連邦取引委員会、国務省の経済部門、司法省反トラスト局が目を光らせている。

また、昔の話になるが、米国には消費者運動のファイター・弁護士のラルフ・ネーダーという有名な男が活躍した。

◆弱者保護

日本の規制緩和がなぜうまくいかないのか。

規制は「弱者保護」のためにあるとする。

公共料金を取ると、民営化されても、価格の決まり方は競争的なものではない。

携帯料金然り。携帯料金も高い。

行政も是認、政治も是認。両者とも消費者の方を向いていない。

いわゆる規制を担当する官庁(役所)や族議員、業界団体などが一体となった「スクラム」だ。

◆社会通念

もう一つの理由がある。

「競争が悪、協調(談合)が善」という社会通念が邪魔してはいないか。

競い合う、仲間と切磋琢磨し合う、といえば聞こえが良い。

言葉は美しいが、これが合理性や効率性を壊していないか。

実際、競い合えば、お互い膨大なエネルギーが要る。

競い合いの逆は何か。

話し合い、協力・協調だ。

和をもって貴しとなす。

これは楽だ。

先日もホテル業界の価格に関する情報交換があったとされ、公取は業界団体に警告を発したと報じられていた。

供給者が和をもって臨む場合、事業者の商品・サービスの「カルテル」、公共入札の「談合」へ傾くのも自然のように思える。

問題は消費者サイドの便益を誰が守るかだ。

「公取の出番」。これもあるだろう。

もう一つが司法。

これはどうだ。

◆司法

日本の司法制度は行政に遠慮して、その方向に沿った判決や判断が多い。

混乱させない、という理由で、1票の格差に見られるように、違憲状態の総選挙やり直しを命ずることもない。

米国や英国では司法が的確な判断をしてくれるはずという安心感があるため、大きな投資も可能となり、新しいイノベーションを決断することができるともいわれている。

なるほど、法曹界!

ここにもっとスポットライトが当たってほしい。

裁判官も政治家同様、公務員特別職だ。報酬も手厚い。

日本だけではなく、トランプ劇場の本場米国でも、今こそ裁判官に冷静に、長期的な目で判断を下してほしい。

目先の自己保身の裁判官、権力者に対して手加減する司法の徒は勘弁願いたい。

両国の国民はそう思っている。

(学23期kz)

若かりし頃のラルフ・ネーダー氏(1934年2月27日~)
正義の女神 テミス像

野村慶太郎さんがホスト役の【思いつき昼飲み会・東京編】に参加

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年5月 トピックス】


5月17日(土)の東京は朝から生憎の雨でしたが、渋谷区広尾の「バイオガイアdaigo」で開催の掲記昼飲み会に参加して来ました。

野村 慶太郎(57歳)さんはFacebookで日々歯に衣着せぬ投稿で人気があり、友達数が上限の5千名に達し、フォロワーが4万人おられる方で私は4年半前に友達になって頂きました。
現在は広島県山県郡安芸太田町の田舎に在住です。
これまでは、現在されている仕事に殆ど触れられることもなく、自由なテーマで全体公開されていましたが、特定の人以外は殆ど会われなかった方です。
今回、Facebookの友達やフォロワーにも会ってみたいと思われるようになり、東京、広島で各5日間のイベントとなりました。

早めに到着しましたので、会場のお店を利用し、ギリシャヨーグルト等を食し、スタッフの方と談笑していましたら、野村さんが到着され、名刺交換をし、自己紹介しました。

その後、野村さんのされている現在の仕事のプレゼンテーションがありました。
バイオの仕事をされているのは存知上げていましたが、バクテリアを始め目から鱗のプレゼンでした。
今回のイベントは参加者の95%が女性で、野村さん同様、今日の私も遂にモテ期(モテ紀)到来かと思ってしまいました。
10:30~14:30迄4時間滞在しました。

(学22期 Y・Y)(会社法、永倉ゼミ)
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慶喜公、その外れた思惑 ①大政奉還

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年5月 トピックス】

◆不思議の負けなし

「負けに不思議の負けなし」

野村監督の言葉ではない。

◆薩長と朝廷側近の結託

関ケ原の戦いが終わり、江戸幕府が成立して以来、討幕に執念を燃やしていた薩長。

他方、薩長の他にも権力の中枢近くに反幕勢力がいた。

朝廷に仕える公家たちだ。

攘夷・鎖国派が優勢だったとされる。また、当時、国学が普及し、王政復古の機運が高まっていた。また、江戸時代には幕府が禁中並公家諸法度で朝廷・公家を縛ったこともあり、幕府への批判が強まっていた。

そうしたところへ、勅許なく通商条約を締結し、開国を決めたことで、幕府を強く非難した。

若き明治天皇を支えた三条実美や岩倉具視だ。

ここに薩長と攘夷派の公家が藩幕つながりを強める要因があった。

こうしたこともあり、薩長はこれら公家と組んで倒幕の機会を窺っていた。

この両者の結託の前に、慶喜公は翻弄されることになる。

両者の結託の奥には幕府をも越える最高権力者「天皇」がいたのだ。

◆大政奉還

江戸幕府への幕、それは江戸幕府の最高権力者、自からが引いたものだ。

慶応3年(1867年)10月14日、慶喜は徳川幕府の京都における拠点二条城で策を練り、大政奉還することを決した。

江戸開城の前年にあたる。

なぜ大政奉還したのか。

◆慶喜の思惑

慶喜は欧米列強が日本に押し寄せる中で、慶喜には外国と並び立つには、権力を集めなければ国として立ち行かないとの見解を持っていたとされる。

けだし慧眼だ。

ではどこに権力を集めるか。

幕府が行ってきた勅許を得ない外国との条約締結には無理がある。

ここは朝廷へ一元的に権力を集め、幕府は朝廷から委任を受けて実務を行う・・・その方が、事はうまく進むのではないか。

<大政奉還をしたとしても、江戸幕府にはしかるべき役割が回ってきて来るのだろう、幕府にはまだしっかりした屋台骨が残っているのだから>・・・と。

足元では、まもなく西郷・岩倉が動いて、近く討幕の密勅が下るとの噂も聞こえていた。

こうした西郷の動きに対しては、大政奉還という先手を打つことで、武力討幕という西郷の思いを封じることができる。

これは慶喜流の賭けだったのだろう。

◆当てが外れた慶喜

しかし、この駆け引きは薩長や薩長派の公家が一枚上手だったといえる。

大政奉還によって、討幕の名目を挫かれた西郷は朝廷の名で王政復古の大号令を発し、自らの「新たな政府」を立ち上げる形にし、同時に慶喜の辞官、納地を決定、一気に慶喜の追い落としにかかった。

ここに慶喜の思惑が大きく外れた。

では慶喜はどうしたか。

慶喜は官を辞することは受けたが、徳川の領地だけ一方的に朝廷に差し出す納地を拒否し、抵抗した。

しかし、薩摩と一戦交えることは、朝廷・新政府と戦うのと同義。

これを嫌った慶喜は、12月12日、朝廷に近い京都二条城から徳川の本格的な軍事拠点であり、会津、桑名藩など旧幕府勢力1万5千(薩長兵は5千)が控える大阪城に勢力を移し、事態の打開を図ろうとした。

だが、続く局面でも再び思惑が大きく外れてしまった。

つづく

(学23期kz)

二条城

(学23期kz)

随筆 横目で眺めた経済学 ⑤モノの値段

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年5月 トピックス】

◆価格と価値

値段はどのように決まるのか。

価格の根源、源泉は何か。

価格の根源には「価値」があり、価値は投下された労働から生まれるとする労働価値説がある。

◆労働の価値

労働価値説はマルクスの専売特許ではなかった。

アダム.スミスやリカードといった「古典派」の大御所を経てマルクスに受継がれたとされる。

労働価値が体化されたのが価格だという。

ちょっと待て。

例えば1時間の労働。誰が働いても同じ価値なのか。

それは違うだろう。

労働者にはベテランもいれば新人もいる。

二人の「労働価値」を比べてみると、明らかな差がある。

ベテランは作業が早く、間違いも少ない。

これに比べて新人は作業もノロく、間違いも多いので新人の給料はベテランよりはるかに少ないのが当然だ。

うちの倅も、新人を教育するのが嫌になるという。

仕事も全く分からぬものの、初任給が跳ね上がった新人。その新人を教育する先輩格の倅の給与との格差はあまりないので嫌になるという。

二人の社員の1時間当たりの労働価値が同一であるわけがない。

また、商品ができるまでに関わったのは「労働」だけではない。土地も然り、材料の購入や投資に用いる資金も然り。

これらは土地代として、資金調達に伴う金利も価格の一部を構成している。

「労働」価値説から価格の決まり方一般を導くのには無理がありそうだ。

◆効用学派は古典派の労働価値説を考察し、彼らの学説にとって「労働力を生産過程における唯一の希少な資源と仮定する特殊モデル」と解釈した。

サムエルソン先生も労働価値説は需要をもたらす効用とは独立に労働費用だけから価格を導こうとするが、嗜好や需要のパターン、労働以外の要素(土地)なども考慮に入れる必要があるとする。

こうした近経の価格理論と、マル系の労働価値説をどのように統一的に理解するのか。

並び立つ経済学の体系の二本の大樹。

私が学生の頃、それぞれが、それぞれの体系の精緻さを誇るだけで、山大の学内で、また日本の経済学界で二本の大樹の比較対照が大々に学生の前に披露されることはなかったように思われる。

(学23期kz)

山口高商卒・玉野井芳郎東京大学名誉教授の著作物

玉野井芳郎 – Wikipedia

MISIA(ミーシャ)の生バンドコンサートで感動!

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年5月 トピックス】

MYZ(宇部・山陽小野田支部)さんからの投稿(2025年5月12日付)

◆きっかけはよく分からないが、家内がお宮のSちゃんから「ミーシャの広島コンサートのチケットが土・日各4枚取れそうだから一緒に行かない?」と誘われたらしい。家内が私に「どうする?」と聞いてきたので、私はもちろん「是非一緒に行きたい」と返事をした。私はミーシャには特別な思いをずっと抱えていた。

私がミーシャを意識しだしたのはテレビドラマ「やまとなでしこ」(2000年10月9日~12月18日の毎週月曜日21:00~21:54 フジテレビ系で放映)の主題歌で200万枚を超えるミリオンセラーとなった「Every Thing」の曲を耳にしてからである。

この曲は様々な場所でBGMとしても流れておりいつも耳にすることができた。

さらに驚いたことに宇部にUターンして防府高校の同期会に参加した折、彼女のお父さんが私達と同じクラスの伊藤君と知ったことである。クラス幹事に聞いたところ彼は最初ミーシャのCDのPRを兼ねて同期会に参加したことがあるとのことだった。

私は高校卒業して以来彼と会う機会はなかった。確か今思い出せば、彼の声は透き通っていて心に響く波長だったような気がする。ミーシャもお父さんの声を受け継いでいるのだろうか?

◆さて、この度のコンサートは「THE TOUR OF MISIA 2025 LOVE NEVER DIES」の全国11都市25公演でのIN HIROSHIMA である。広島での開演は2年半ぶりとか。

会場は広島県立総合体育館(広島グリーンアリーナ 都市公園の景観に調和したスポーツ施設)で収容人員1万人とのこと。

今回は土・日の開催でほぼ満員、約2万人近く集めたことになる。入場が午後3時、開演が午後4時、私達は開演2時間前に会場に行き入場を待った。やはり入場する前には長い行列ができていたが、早めだったので割とスムーズに入場できた。もちろん指定席であるが、私達はアリーナ席の自席を探すのに苦労した。

順次会場内の席が埋まってきて、普通の体育館での1万人、圧倒されそうになる。

いよいよ開演!胸が高鳴る!最初はフルバンドからスタート。ミーシャが登場するとアリーナ席の観客はみな立ち上がりstanding ovation である。赤や青や黄色などのペンライトを左右に振り、そして拍手とリズムに合わせて体を動かす。ミーシャの圧倒的な歌声とフルバンドによるダンスとのコラボレーションが始まる。たちまち聴衆を熱狂と感動の渦に巻き込んでしまったのである。

◆ところで、彼女のあの声量はどのようにして生まれてきたのであろうか?

彼女はデビューして27年、スタートは高校時代の黒人ボーカルに師事してからとのこと。高校を卒業してからは「アンダーグランドのカルチャーをメジャーにというコンセプトを形に」の信念のもとニューヨークで多く事を学びボイストレーニングの努力をしたに違いない。5オクターブの音域を持ち、アナログの彼女の歌声評価がニューヨークで高まり数々のヒットを飛ばし、ニューヨークや日本での主要都市コンサートツアーも大成功を収めている。

彼女のコンサートツアーは、音楽バンドにDJを交えて構成されたサウンドとダンサーやドラァグクィーンが登場するステージというスタイルにR&BもソウルもJ=POPも表現している。この度のコンサートはそれを更にグレードアップし新しいコンセプトで企画されたものである。

◆今回は彼女のヒット曲中心に12曲披露されたようだ。(本当のところはよくわからない)私の聞き覚えのある歌も何曲かあった。「Every Thing」はもちろんであるが「逢いたくて」「明日へ」「愛をありがとう」「アイノカタチ」「地平線の向こう側へ」忘れない日々」「希望のうた」等。三部構成で途中バンド演奏やダンスを入れ、そして彼女の短いトークもあったがすべてハイトーンボイスで歌い切っていた。あっという間の2時間。 Amazing!

私は以前、日本生命の配信サービスで彼女のコンサートをスマホで聴いたことがあったが、今回のようにコンサートに出かけてライブで聞くのは初めてである。(クラシック音楽のコンサートには何回か出かけたことはあったが) 

このツアーは6月の東京公演が最後らしい。これからもあのハイトーンボイスで歌い続けることは可能だろうか?

年齢的な事もあるが是非これからも歌い続けて欲しい。

彼女へのリスペクトは音楽だけではない。社会貢献活動や慈善活動にも積極的に参画し世界の恵まれない子供たちへの教育支援活動を続けているとのことである。それは彼女のたゆまない努力でニューヨークの大成功を意味しているのであろう。

ミーシャは近くて遠い。

しばらくはこの感動を胸にしまっておこう!

(完)

80年代の「とある下宿先」…その隣部屋の人との一期一会

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年5月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんの投稿

(Sさん投稿の70年代の青春の下宿に触発されて)

ある夏、西陽が落ちかける前、道場門前近くにあった古くはあるが清楚な作りの木造住宅での出来事。
2階に間借りしていた先輩を訪問した。 事前の連絡も無しに訪問するのだから、不在であっても不思議ではない。(今の様に個人持ちの携帯電話など想像だに出来ない時代)

先輩に声掛けをしたら、唐紙一枚隔てた隣人から声がかかった…
「今はおらんみたいだょ」
「では…」と失礼しかかった時、
「まぁ、僕の部屋で待っとたら、いいが〜」と声が続く。
”じゃぁ、お言葉に甘えて…”と言ったかどうかは記憶にないが、隣人の教育学部の先輩の部屋に座った。
西向きの部屋で、西陽の強い日、きっと天気の話、そして日中は蒸し風呂の様でその部屋の話をしただろう。

待ち人帰らずを待つ身、長居をするつもりはなかったが、時に何かの拍子で「教育」の話になった。
教養部の一年、河村先生(山女教授)の教育学を受講し、そして、若干の関連する本に目をした事があったかも知れない。
(田舎者だったから、大学=教師の道も?と考えていた節もあり、憲法、心理学も必須と先輩から聞いていたのでその2つも受講していた)
大きな対立、議論をしたと言う記憶もないので、教育への想いを語ったに違いない。
後に「思いて学ばざればあやし」とゼミの先生に言われる位だったから、ただ単に熱い想いを語ってしまったに違いない。
教育学部の先輩は広大の教育学の大学院進学も考えられた人だった。全ての受けとめ方、やりとりが先輩の教育的配慮の元、成立していたのだろう。
青臭い話を何ら否定される事なく、にこにこ接して戴いたと記憶している。

西陽の下宿での暑い、そして熱い議論の幕引きは、当初目的の訪問した先輩の帰宅によって、引かれた。

それは、ある意味、教育学部の先輩との一期一会の出逢いであった。時が過ぎ、夕方になりかかっていたので、経済学部の先輩の誘いか教育学部の先輩の誘いか分からないが、その下宿を出て、おでんやに連れて行って貰い、ご馳走になった。

総合大学、そして、メガマンモス校でなかった事が、望んでも望めない良縁の機会となった。

教育学部の先輩は出身地の鳥取県で、経済学部の先輩は大学院進学後、長野県で高校教諭となった。
あの時から40数年の歳月が経つ。あの唐紙一枚の隔てた部屋にいた二人の先輩、きっとその世界では名物教師になられた事だろうと、疑う余地もなく、確信している。

(岡山 B)

同窓生・経営コンサルによる寄付講座 10月開講

「産学連携・事業推進講座」が今秋経済学部で開講することとなった。

担当するのは(株)タナベコンサルティング・ゼネラルマネージャーの大裏宙氏(51期大阪支部)。

この寄付講座は今年10月から来年2月の4か月間、計4回実施し、企業の問題解決に向けた事業アイデアを学生が考え、討議し、企業へプレゼンすることが企画されており、企業経営を実践的に学ぶことが主眼となっているようだ。

大裏氏には5/24日(土)に開催される第95回通常(全国)総会の席上、この寄付講座の概要に関し、簡単なスピーチを頂くことになっている。

(事務局)