逆境下の文教施策 毛利の殿様 その6

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年4月 トピックス】

◆防長教育会

厳しい中学校経営を支援するため明治17(1884)年設立。

先に述べた学校経営の窮状は長州藩最後の藩主毛利元徳公の耳に入っていたようで、元徳は外相などを歴任した井上馨に帰郷した際、県内の学業事情を視察・報告してほしいと依頼。

井上馨が、特に県内の中学校経営の窮状を元徳公に報告すると、「故国山口県の学事をこのように放置するのは忍びない」として元徳公が10万円を寄付。これに政官界、実業界、県内の有志が賛同、防長教育会が発足した。

防長教育会は5中学の整備事業に着手する。

これには窮乏士族を救済する意味もあったとされる。

さらには明治19(1886)年、県立から官立山口高等中学に移行した学校運営費を全額負担した。

また育英事業も行われている。

明治19(1886)年には1府県1中学校とし、全国を5学区に分け、高等中学を1学区に1校設置することとされた。

(ナンバースクール)

山口は近畿・中四国と共に第3学区の京都に属した。

しかし、ここで山口は特例で「官立山口高等中学」の設置に向かう。

防長育英会が学校運営に充てる多額の寄付を毎年行うことを決めたのだ。

◆このように、山口では鹿児島・島津家と共に、毛利家が多額に寄付をしたことでナンバースクールではない特例的な高等中学校となった。

明治27(1894)年には「官立山口高等中学」が「官立山口高等学校」(旧旧山高)に名称替えとなる。

このように毛利家は節目、節目で、長州・山口の文教に密接にかかわっている。

(学23期kz)

毛利元徳公

井上馨侯爵

逆境下の文教施策 毛利の殿様 その5

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年4月 トピックス】

山口大学の前身は数々の困難や存続の危機を藩主の支援のほか、地元や地元縁者の支援を受けて乗り越えてきた。

◆維新の学校制度改革

明治3(1870)年に「大学規則」、「中小学規則」が発付され、小中学校を経て大学に至る「進学」という概念が示され、小学と中学の区別が導入される。

ここで、藩校明倫館所轄の講習堂(例えば三田尻講習堂)や支藩が設立した学校、これまでの郷校が小学に移行。

他方、萩明倫館は萩中学に、山口明倫館は山口中学に改称された。

明治5(1872)年には、義務教育の確立へ向けて「学制」が発布され初等・中等教育の充実が重視されたが、制度の充実を図るに足る財源がなく、国からの財政支援もなかったために苦労する。

このため県は(前年に廃藩置県で山口県発足)県内の中学を廃止し、形が整うまで一時に「変則中学」とした。

しかし、「変則中学」の経営も厳しく、グレードダウンして「変則小学」にしたが、それでも経営を持続することは難しかったため、とうとう閉鎖に追い込まれた。

ここで毛利家の登場と相成る。

◆毛利家が学校制度再興資金の大部分を寄付し、翌年変則小学が私学として再スタート、その校舎は「鴻城学舎」と呼ばれた。
その再興から3年後、山口中学(私立)に改称されたが、毛利家経営の「私立」であった。(山口中学1校のみ)

この時の山口中学は入学資格が14歳以上、就学期間は5年。

通常の教科を学ぶ尋常中学科(3年)に続き高等中学科が置かれ、これが次の県立中学校の基礎となる。

山口県側は旧藩家や在京の県出身者、県内の有志に寄付を依頼。集まった基金で明治13(1880)年に県内に5つの県立中学を設立する。(山口、萩、岩国、徳山、豊浦)

この5つの県立中学には年限3年の尋常中学が置かれ、さらに進学希望者は他の4校からも県立山口中学の高等科へ進むこととされた。

この時にも県立中学の経営は厳しかった。

つづく

(学23期kz)

毛利氏庭園の桜(山口県観光サイト)

ゴルフ 何でそうなるの! ➉抜けないクセ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年4月 トピックス】  

◆ゴルフのスウィングには各人それぞれ癖がある。

特にアベレージゴルファーには抜きがたい癖がある。

グリップ、スタンス、バックスウィング、トップ、切り返し、ダウンスウィング、インパクト、フォロースルー。

無くて七癖。

ゴルフもそうかもしれない。

◆ゴルフ雑誌を読み、テレビのゴルフ番組を視、ユーチューブの画面を繰り返し研究し、かなり理想的なスウィングに近づいたのではないかと思いながら、練習場でクラブを振る。

しかし、己のスウィングフォームをビデオに撮ってみると、情けない画像に愕然とする。

体重の乗せ方、右肩からの突っ込み、左肘が引ける、両手が伸びない、インパクトの時、撓屈(右手首が手の甲側に折れる)掌屈(右手首が手のひら側に折れる)。これだ。

私もこれに泣いた。いや、現在進行形だ。

ボールなしのスウィングではいいスウィングができるのに、ボールに向かうと、思うようなスウィングは出来ない。

コースに出てパートナーと一緒に回ると、どうしてもボールを打ちにかかる。

◆ドライビングレンジで打っていると、レッスンプロが生徒に教えている光景に出会う。

ここでは他人のスをは客観的に見ることができる。

レッスンプロが生徒を指導するが、生徒はその通り打てていない。

しかし、レッスンプロは生徒が出来ていなくても褒める。

とにかく褒める。

見ている私も恥ずかしくなるくらい、かなりオーバーに褒める。

褒めないと生徒がレッスンを止めるからか。

生徒が止めると「レッスン料」が入ってこない。

翌週来ても光景は同じ。生徒のスウィングにはほとんど改善が見られない。

全く変わらないスウィングが続く。

それでもレッスンプロは褒める。

◆傍からから見たら、私もそうだろう。

本番よりも練習が好きな私は、昔から自己流の変な癖がついており、癖ががなかなか取れない。

◆地方勤務をした若者がいた。

彼は2年間の地方勤務の間、レッスンプロについて指導を受けたという。

そのスウィングたるや、私の目から見て理想形に近かった。

当然スコアもまとまっている。

レッスンプロに習うコーチ料は安くはない。また、スウィングが変な癖に固まる前に、ケチらず、多少金がかかってもレッスンプロの門を叩く方が、結局は長い間のゴルフライフをエンジョイでき、うまくなる近道なのかもしれない。

鉄は熱いうちに打てということか。

悲しいかな、もう遅い。

こうなったら、自分なりのクセを磨いて大らかにゴルフを楽しむ方が、ストレスフリーで潤いのある人生につながる早道かもしれない。

(学23期kz)

逆境下の文教施策 毛利の殿様 その4

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年4月 トピックス】

◆明倫館の拡充 第13代・毛利敬親(たかちか、1837~1869年)

敬親は天保8(1837)年に第13代藩主に就任するが、天保4年の大飢饉のダメージは就任した年にピークとなったようで、同じ天保8年の2月に大塩平八郎の乱が起き、3月に三田尻でも一揆が起きている。

また、ペリーが来航するのは少し後のことであるが、この時には異国船が日本の近海に姿を見せており、海防への対策も急がれていた。

この時の財政状況をみると、歳入が3千貫、他方負債は8万5千貫であった。逆説的な話であるが、こうしたなか、敬親公は嘉永2年(1849)に明倫館の拡充に向かう。

敬親は財政緊縮の際も明倫館の経費は節減しなかった。

こうした事態だったからこそ、文教重視・人材輩出強化策へ向かった。

これは敬親の判断だ。

敷地を約17倍に拡張、教員は5倍、入学生は十数人から大幅に増え、幕末には千人の規模になったとされる。

教える科目は文科系の漢学・筆道・礼式、理科系では医学・天文学・地理・算術、芸術系の音楽、兵学系では、弓・馬・剣・槍・騎射・水泳と、総合学園の様相を呈した。

特に洋楽による科学的・合理的思考の要請を進め、藩士の世界観を拡げることに配意した。

就学期間は3年であり、こうした修業の場は後々人材抜擢の母体となる。

敬親は文教の発展拡充策の浸透の観察に熱心で、参勤交代で萩に帰る途中、必ず明倫館に寄り、生徒の学ぶ様子を視察し、生徒の発表を聞いたという。

また、世子・元徳を明倫館の一隅に住まわせた。

教育が大事だったとはいえ、教育は懐妊期間が長い。

多くの借財を抱えた中で、よく思い切って文教の拡充に向かったものだ。

◆勉強熱心な鳳陽翁

上田鳳陽は山口講堂開設後、経営を門人に任せ、(47歳の時に)明倫館に再入学し、館内に秘蔵され、大黒屋が集めていた国学関係の書籍(大黒屋本)の研究を1年間行った。

大黒屋本:

国学者・契沖の門下で、長州藩御用達であった京都の町人・大黒屋今井似閑が享保 年間に契沖の遺著及び、自らが長年集めていた国学関係の典籍を京都の上賀茂神 社の神庫に奉納しておいたものを、明倫館創立の際に伝写したもの。現在は山口県立 山口図書館に保存されている。

明倫館での研究を1年程行った後、鳳陽は再び山口に戻り、講堂の経営に生涯を捧げた。

天保5(1834)年には、藩主敬親より自筆の聖号を下賜されるとともに、その表装用として紋章入りの茶地金襴織の布を与えられた。翌年、これを使用した表装を山口講堂に納め、 志ある人々に礼拝を許した。

 また、鳳陽翁は儒学だけではなく国学にも精通し、故事にも詳しかったため、山口代官から委嘱され、「風土注進案」の編纂にもかかわった。「風土注進案」は、敬親の命により、防長両国の各 村落について故事来歴や地理など数十項にわたる項目を調査し、 それをとりまとめ、町村から注進する形式で、一町村ごとに一冊 に編纂した文書である。鳳陽が編纂にあたった「山口宰判風土 注進案」は、数ある風土注進案の中でもその精細さから高く評価されている。

つづく

(学23期kz)

毛利敬親

逆境下の文教施策 毛利の殿様 その3

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】

◆萩と三田尻の中間・「山口」の学問所建設 

第10代・齋熙(なりひろ、1784~1836年)の時代

長州藩では萩の藩校・明倫館、私塾では三田尻(防府)の越氏塾を中心に多くの郷校、寺子屋が設けられ、若者の教育に力を入れた。

こうした中、山口の大内氷上の上田鳳陽翁は寛政12年(1800)、32才の時に萩の明倫館に学び、規定3年のところ、文化6(1809)年まで9年の永きにわたり在学し、儒教、国学を中心に勉学に励んだ。

修学後は若手諸氏の教育にあたったが、大内氏の文化の栄えた山口には学問所はなく、書籍も乏しかった。

そこで鳳陽翁は文化12年2月に学び舎の創設を志し、当時の明倫館の学頭・中村九郎兵衛を通じ、学問所の建設を藩に申し立てた。

折しも藩では教育に注力していた時期でもあり、申し立てを受け、藩有林から建築用資材の伐採を許可し、資金面の支援を行い、学頭へも学舎建設を支援すべく手配させた。

同年4月、中河原に講堂が落成し、山口講堂と呼ばれた。

上田鳳陽翁が47歳の時だ。

時の藩主は第10代・齋熙(なりひろ)。

齋熙は山口講堂が完成した際に、参勤交代や領内巡回視察で使う公館「山口御茶屋」で、山口講堂に学ぶ若者の文武諸芸を観閲した。

これが発端となり、萩の歴代藩主が萩往還を通る参勤交代や要務で「山口」に寄った際は、学問所・講堂を観閲することが慣例となり、萩明倫館、三田尻の越氏塾と共に山口講堂にも書籍が下賜されたという。

また、ペリー来航から10年経った文久3年(1863)には、攘夷決行に備えて藩庁が山口に移転し、明倫館の人材も多くが山口に移ったのに伴い、同年に上田鳳陽翁が文化12年(1815)に山口中河原に開講していた私塾山口講堂(のちに山口講習堂)が山口明倫館と改称のうえ藩校に昇格、明倫館が萩と山口に並び立つことになった。

◆山口講堂を開設した上田鳳陽は藩主のお褒めに預かることになり、身分は下級武士から中級武士へと昇格、儒役(じゅやく)という役職を得た。

儒役とは、藩主や藩士へ孔・孟の教えを講じ、教授する役職だ。

新明倫館では再び朱子学が教えられることになるが、明倫館の書籍をみると、「古文辞学」の書籍が多かったようだ。

荻生徂徠の「古文辞学」。

すなわち徂徠学とは朱子学とは異なる。

幕府公認の朱子学、すなわち道徳でまつりごとを治めるのではなく、各人異なる人間性を道徳で抑えず、個性を是認し、伸ばし、制度を作り、変革し、制度によって社会を統治することが肝要だとする

実は上田鳳陽翁もこちらの流れ、徂徠学派ではないかともされる。

古文辞学派でありながら、国学や考証学にも通じていたようだ。

表向きはともかく、明倫館では幕府が推奨する道徳中心の朱子学から距離を置く傾向があった。

実学的な徂徠学が主流となっていたようで、長州藩では公儀に対する秩序を守り忠誠を誓う朱子学は、関ケ原以来もともと敬遠される傾向にあったのかもしれない。

つづく

(学23期kz)

毛利斎熙

荻生徂徠

逆境下の文教施策 毛利の殿様 その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】    

◆明倫館の創設 第5代・毛利吉元(1677~1731)

長州藩でも財政が逼迫していた。

財政が逼迫する中では家臣の士気も低下する。

財政悪化を食い止め財政再建を進める必要があるが、その担い手、財政改革を進める人材がいないという問題に突き当たった。

このため倹約や経費節減に取り組み、参勤交代に関わる人員削減にも努めている中であっても、この先中長期的に財政の悪化を食い止める藩政改革の実施を遂行する人材を育てんがために、文教予算を捻りだし、人材育成機関を設立した。

藩校明倫館の創設だ。

5代藩主吉元(1677-1731)の時にあたる。

ここで人材育成機関としての明倫館の歩みが始まることから、5代・毛利吉元は「長州文教の祖」とされている。

◆明倫館が出来上がったのは享保3年(1718)12月。

江戸後期当時、全国で300ほどあった藩校のうち13番目の創建だった。

明倫館では、940坪の敷地に孔子、孟子などの賢人を祀った大成殿が中心に置かれ、学問寮、兵法場、手習い所、剣術場などが配置され、明倫館は建物の構造、教育内容、儀礼式典など湯島聖堂を模したものだったという。

また、明倫館の新設にあたり、教える側、すなわち教員の身分も引き上げており、この結果、己の身分を誇れる職場として、優秀な教育者が集まることとなった。

また、同時に親が裕福とはいえない学童には給費支援制度を設け、教育の機会を広げる策も講じている。

ここで人材育成機関としての明倫館の歩みが始まることから、5代・毛利吉元は「長州文教の祖」とされている。

◆初代学頭は湯島聖堂の竣工に合わせて大学の頭に任じられた林鳳岡(ほうこう)に学んだ儒学者の小倉尚斎。

そこでは朱子学が講ぜられたという。

2代目が徂徠学の山縣周南であった。

「明倫館」の名付け親である。

「明倫」とは孟子の言葉で「(文教が)人倫を明らかにする」、すなわち文教が人の守るべき道義を明らかにするという意。

「上に立つものが教育の力によって人間の道を明らかにして教え導けば、下、人民はみなそれに感化されて互いに親しみあい、国は大いに治まる(皆、人倫を明らかにする所以なり)」

教育内容をみると、旧明倫館では初代学頭小倉尚斎の時には朱子学が教えられたが、2代目学頭の山県周南は荻生徂徠の「古文辞学(古学)」だ。

すなわち朱子学や陽明学のように朱熹や王陽明の主観的な見解によって孔・孟を解釈するのではなく、孔子、孟子の原点に立ち返ることを目指した。

また、徂徠は為政者が優れていれば民衆もよく治まることはなく、世を治めるためには社会の仕組み、制度の改変が重要であること、また人材については、身分制度にとらわれず、能力に応じた人材登用を行うべきとの革新的な意見を持っていた。kogaku

(学23期kz)

毛利吉元公

逆境下の文教施策 毛利の殿様 その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】

◆江戸後期、各藩では財政難に取り組み、各種藩政改革を行なった。

なぜ財政難が起きたのか。

5代将軍綱吉時代(1680~1709年)年の浪費が大きいようだ。

宝永5年(1708)年綱吉死去の前年、幕府の収入は60~70万両、歳出は140万両とされる。

これは綱吉特有「お犬様」への支出の他、広大な神社造営、気前の良い家臣への加増、「御成」(臣下の屋敷訪問)への土産代のほか各種催しなど、綱吉公の希薄な金銭感覚によってもたらされた財政逼迫だった。

また、綱吉公時代には特殊要因があったことも不運だった。

1707年の富士山噴火に伴う不作・災害復興資金の他、幕府直轄の鉱山の採掘量減少、長崎貿易による金銀の流出、貨幣経済の浸透による財政支出の増加なども財政悪化の要因に加わった。

この中で、財政改革に取り組むことができる優れた人材を供給すべく、教育改革が藩政改革の大きな柱の一つとなり、各藩では相次いで藩校が創設された。

長州藩はどうであったか。

ちょうどこの時代に明倫館が創設されている。

第5代・毛利吉元(1677~1731)の時だ。

このため、毛利吉元は「長州文教の祖」とされている。

つづく

(学23期kz)

徳川綱吉

ゴルフ、何でそうなるの!  ⑨ネジ1本

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】

◆ネジ一本の違い

調子が良い時には、何も考えないでクラブが振れる。

何度打っても同じ球筋で球が飛んでいく。

しかし、同じように打ったつもりでも、とんでもない球が出る時がある。

緊張していないはずの練習場でもこうした球がたまに出る。

自分なりの最善のスウィングをしているつもりだが、そうはなっていないのだ。

どこが違うのだろう。

どこかが違うはずだが、どこが違うか分からない。

練習場では打ち方を変えて微調整してみるが、本番ではそうはいかない。

◆シャンク

シャンクが止まらないことがあった。グリーンの近くまではいい感じで来たが、ここ一番のアプローチで球が右に飛び出すシャンクだ。

何度も。

事前のイメージではピンの手前まで柔らかい球を打ち出し、ピンに絡んでゆく筈のボール。

しかし、玉がピンに向かうのではなく、打った瞬間視線から消え、あらぬ方向に飛んでいく。

身体が開いているのだろうが、本人には意識できていない。

客観的に見ることができないのだ。

一緒に回るパートナーにも失態を晒し、恥ずかしいやら、申し訳ないやら。

◆バンカー地獄

 また、さほど難しくないバンカーから4度、5度打っても出ないときがあった。たいていは一度で出るし、バンカーは苦手にはしていないのだが、この時は初対面の方と回っており、緊張したのだろうか。今考えても、なぜだか分からない。

素振りと本番のスウィングが違うのだろう。しかし、どこがどう違うか分からない。

こうなった時の修正方法が分からないのは困ったものだ。

(学23期kz)

「ぬかるみ」 金子みすゞ

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年3月 トピックス】  

◆明日 3月10日は金子みすゞの命日。

作品をひとつ

「ぬかるみ」

この裏まちの

ぬかるみに

青いお空が

ありました

とおく、とおく

うつくしく

澄んだお空が

ありました

この裏まちの

ぬかるみは

深いお空で

ありました

金子みすゞの墓(長門市仙崎 遍照寺)

彰義隊、その後の運命 ②悲運

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

◆天野八郎

上州の豪農・大井田家の次男。

新田義貞の氏族に含まれる一族。清和源氏の流れを汲んでおり、代々庄屋を務めた名家だという。

彰義隊は新政府軍の前に敗れ去り、副頭取の天野八郎は7月に捕縛され、獄中で病死した。

一時は函館に向かう榎本武揚の艦に乗ったが、引き留める榎本に対し、律儀にも彰義隊に武器や食料を与えてくれた方々にお返しに行くとして、捕らえられることを覚悟で艦を降りている。

その時、榎本は「それにしても天野殿は惜しい。あれで要領の良い人なら、勝さん以上になっていたろうに」と、

じっと眼をつぶったという。

榎本武揚にそこまで言わせるとは・・・

天野八郎という人物はただの荒くれではなかったのだろう。

◆天野八郎の辞世

「北にのみ 稲妻ありて 月暗し」

稲妻が轟く北とは・・・奥羽越列藩同盟を指すのか、箱館を指すのか。

◆「決して香車に恥じず」

香車のように引くことを知らない、一本気な男。これが天野八郎だった。

◆香車といえば・・・

昨年9/30(月)王座戦第3局

手番・藤井七冠の146手目・九6香車。

永瀬九段が指した手拍子の歩打ち。

これが敗着の一手となり、藤井七冠勝利。

桂馬が上がって受けておれば、軍配は長瀬九段に・・・

◆彰義隊の残党

上野戦争後は江戸の町中が乱れ、流言飛語が飛び交い、暴行略奪も多発したという。

村人たちは自衛のために住所不定のよそ者を警戒し、排除にかかる。

こうしたよそ者には彰義隊の残党もいたのだろう。

杉並には村人から追われた者、そこで自害した者の墓が、わりと残っているようだ。

私の住んでいる近くの寺にも、東北から応援で加わった彰義隊の残党ではないかともいわれる3名の勇士碑が残っている。

大田区の東光院。

寺の関係者に伺ったところ、6代前の住職によると東北方面の藩士だったようだとのこと。

当時は徳川側には奥羽列藩も与して新政府と戦う構図があり、慶応4年春以降、彰義隊への参加者が膨れていく過程で奥州列藩藩士が彰義隊に集うこともあったと思われる。

勇士碑に刻まれた三名は南下し、洗足池辺りで村人の手にかかり、残り二人は旧中原街道を下り、桜坂を越え丸子の渡しがあった沼部付近の医者に逃げ込んだ。

医者は一応の手当てを施すが、結局は村人の手にかかり、俵詰めの形で多摩川に沈められたという。

勇士碑の三名【画像参照】

南無阿弥陀仏

(学23期kz)

勇士碑 大田区・東光院