建国記念日(紀元節)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

建国記念日は初代天皇が神武天皇社(祭神 神倭伊波礼毘古命 鎮座地 奈良県御所市柏原字屋舗)で即位された日(今年で紀元2685年)です。
 近くに丘があり神武天皇がお登りになり「大和は山々にかこまれて美しい国だ、蜻蛉(あきつ)のとなめしているようだ」と仰せられたという。

 わが国の別名「秋津島」の名はここから起こったのだという。この丘の木を切ることは恐れられている。斉明天皇の越智岡の御陵をつくる時にもこの丘の木を切ることを恐れてしなかったという。

また頂上にハライタ山という土壇があり、吾平津媛を祀った跡だと伝えられている。

  神武天皇についてですが、天照大御神の子孫です。天孫降臨にて天照の孫 邇邇芸命が筑紫の日向の高千穂峰(宮崎県高千穂町)に降臨され、さらに国を探し求めて吾田 長屋笠狭岬(宮崎県延岡市愛宕山)へと至り、そこで大山祇神の娘の鹿葦津姫(かしつひめ)、またの名は木花開耶姫(このはなのさくやびめ)を 娶った。

二人の間には火闌降命(海幸彦)・彦火火出見尊(山幸彦)らが生まれた。久しくして崩御。可愛山陵(延岡市)に葬られた。山幸彦の孫が 神倭伊波礼毘古命(神武天皇)です。

神倭伊波礼毘古命は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向(宮崎市宮崎神宮)で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。

彼らは、美々津(日向市)を出発し筑紫へ向かいました。

東征の話は長くなるので省略します。

熊野から大和入国は、高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。まず八咫烏 を遣わして、土豪に神倭伊波礼毘古命に仕えるか尋ねさせたが、豪族の兄宇迦斯は鳴鏑を射て追い返してしまった。

兄宇迦斯は神倭伊波礼毘古命を迎え撃とうと したが、軍勢を集められなかった。そこで、神倭伊波礼毘古命に仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて、あるいは、天上や石が落ちてきて、押し潰すことで、圧死する罠)を仕掛けた。

弟の弟宇迦斯は神倭伊波礼毘古命にこのことを報告した。そこで神倭伊波礼毘古命は、大伴氏(大伴連) らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)を兄宇迦斯に遣わした。

二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に 入って仕える様子を見せろ」と兄宇迦斯に迫り、兄宇迦斯は自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。

その後、圧死した兄宇迦斯の死体を引き出し、バラバラに 切り刻んで撒いたため、その地を「宇陀の血原」という。忍坂の地では、土雲の八十建が待ち構えていた。

そこで神倭伊波礼毘古命は八十建に御馳走を与え、 それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。そして合図とともに一斉に打ち殺した。

その後、登美毘古(ナガスネビコ)と戦った。最後に兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)の兄弟と戦い、そこに邇藝速日命(ニギハヤヒ)が参上し、 天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。こうして荒ぶる神たちや多くの土雲(豪族)を服従させ、神倭伊波礼毘古命はで神武天皇として即位した。

 神武天皇は治世76年(現年代計算で38年)で橿原神宮の地で生涯を終えた。畝傍山の麓の神武天皇陵に葬られた。現年齢計算で63歳の生涯であった。

初代天皇について日本書記、古事記に記載されている内容です。

天皇家は126代続く世界最長の王室です。

以上

(学29期K.Y)

蘭カッテンディーケ教官と勝海舟

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

長崎海軍伝習所の教官として来日したオランダ人ヴィレム・カッテンディーケ。

カッテンディーケ教官は1857年9月に幕府がオランダに建造依頼したヤーパン号(のちの咸臨丸)に乗ってやってきた。

彼は長崎の海軍伝習所で教えた時のことを「長崎海軍伝習所の日々」の中で書き残している。

◆わがままな生徒たち

やって来た当初、伝習所の生徒の年齢が高く、プライドも高く、辛抱強く学ぶという態度に欠けた生徒に面食らう。

それもそのはず、生徒として幕府から送り込まれてきた者は「旗本」たちで、齢が長じた者ばかりだったという。

確かに日本人は物分かりが早く、鋭敏だが、このため、ちょっと覚えると好奇心が満足して、すぐほかのものに関心が移り、飽きっぽい性格も有していると観察している。

また、「この技術は教わるがあっちはやらない。学ぶのはこの教科だけ」といったわがままな生徒ばかりだったという。

◆勝海舟

こうしたなか、勝海舟はオランダ語を理解し、性格も明朗で親切でもあったため、オランダ人たちは勝海舟に非常な信頼を寄せていたという。

伝習生との間にトラブルが起きても、勝が間に入ればオランダ人も納得したという。

幕臣でありながら明治新政府にも仕えた勝海舟。

当時、勝への評価は芳しいものばかりではないが、長崎の海軍伝習所での勝の評判は頗る良かった。

逸材

こうしたこともあり、徐々に教育が浸透していく。

カッテンディーケ教官は、これまでのヨーロッパ人は日本に長くいればいるほど日本人のことをよく言うものが多いが、確かに日本人を知れば知るほど美点が現れてくる国民だとしている。

この中で優れた資質を持つ生徒が多かったとしたが、特に優秀な生徒として、榎本武明と伊沢謹吾(のちの軍艦奉行)の名を挙げている。

◆離日の辞

カッテンディーケは日本を去るにあたり、次のような言葉を残している。

「まったく何の知識もない国民がわずか4年で海軍を創設しようというのはそもそも欲張りすぎだ。だが彼らはその短い期間に4隻の蒸気船を持ち、外国人の助力なしでやっていけると思えるまで上達した。これは、むしろ驚嘆すべきことといっていい。

伝習所の学習は中途半端に終わってしまったが、本官は日本人が持ち前の理解力と、旺盛な記憶力や恵まれた才能で、覚えた知識をさらに拡充し修練を積んでくれることを切に望む」。

そしてカッテンディーケは1859年11月に日本に別れを告げた。

勝が咸臨丸艦長としてアメリカ海軍ブルック大尉ら数十名のアメリカ人とともにアメリカへ向かうのはそのわずか二月後の1860年1月だった。

(学23期kz)

長崎海軍伝習所
ヴィレム・カッテンディーケ教官
勝海舟

ホールインワンの夢

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

寝ぼけ眼で見た今朝のニュース…(2月4日)
米国のゴルファー宅にプライベートコースがあって、「ホールインワン」を狙って試打を繰り返す
周知の様、交通事故に遭うよりもっと確率が低いとも言われるホールインワン!!所謂”まぐれ当たり”(笑)
マイホームコースで打ち慣れているオーナーでさえ、『134』回目に”お見事♬”
一考したオーナーは懸賞金を掛けて、これに挑戦する希望者を募った 多数の応募者の中から選ばれた7武将(⑦騎士)が挑む事に…(きっと無制限と言う事なく、ある本数での交替制だろうが)
その内の一人がまぐれ当たりの『⑤本目』でホールインワン♬♬ 何と懸賞金は日本円で1550万円獲得❢❢

頭の中のパチパチと算盤が動き始める〔ワンアプローチに30秒かかったとすると、5打⇒150秒⇒ロスも含めてマックス約6分⇒と言う事は時給1億5500万〕こんな高級取りは耳にした事がない❢(笑)
しかし、あってはならぬが交通事故でもありうる…(合掌)

夢から覚醒し…
今日も、通勤では安全運転第一❢で、かつ、いきなりホールインワンを狙うのでなく、またクラブや洒落たゴルフウェアでなく、ナッパ服に着替え、地道に草刈りをし、行方不明を探し、起伏に富む野山を駆けり、時間内に終了し、他人にご迷惑をかけないプレーをしよう いや、これはプレーでなく、探索のお仕事だった(笑)頑張っ❢❢

(岡山 B)

途中下車の人生

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

「途中下車の人生」

◆はじめまして、山口大学経済学部64期の安平賢太郎と申します。

先日、初めて鳳陽会東京支部で行われた新年会に参加させていただき、この度この投稿の機会を頂戴しました。

先ずはこうした機会をいただき御礼申し上げます。

突然ですが、皆様は「途中下車の旅」はお好きですか?

私は、ゴールを決めずに、自由気ままな旅を楽しむのが好きです。

この感覚が私の人生そのものなのかなと、これを機に改めて考えさせていただきました。

◆平成4年、山口県宇部市に生まれ、小学校教員の両親の元、物心つく頃から剣道にピアノに習字と、様々な習い事をさせてもらっていました。いろいろな習い事に触れましたが、何かに熱中することはありませんでした。

小学生の頃、皆さんはありましたか。「将来の夢」を書かされることが。

私はあの時間がどうも苦手でした。周りの友達がプロ野球選手やJリーガー、学校の先生、獣医さんなどと書く中、私は「ラーメン屋さん」と書いたのを今でもはっきりと覚えています。確かにラーメンそのものは好きでした。ただ、それは夢と語れるものでもなく、その場凌ぎで書いたものに過ぎませんでした。

大学受験は1年浪人して山口大学へ進学しました。浪人という辛い選択をしてまで、山口大学にどうしても行き、学びたかったのかと問われれば、答えは”NO”です。単に父が山口大学出身で、母も国立大学卒だったので、なんとなく勝手に背負った期待と経済の面から「両親が喜びそうだ」と思ったからです。

◆大学卒業後、地元のテレビ局に入社しました。一度は最終面接で落とされたのですが、後日、内定者が他社に流れてしまったため、補欠採用となりました。

もうお察しの通り、テレビ局就職も”どうしても”と目指していたものではなく、成り行きでした。他にも銀行やインフラ系の会社など幅広く受けていましたし、当時学内にあった公務員専門学校で公務員試験の勉強もしていたくらいでした。

こうして執筆しながら振り返ると、私は他の人に比べ、意志の弱い人間だなとつくづく思います。「ここに行きたい」「これが食べたい」「これがしたい」という欲求が希薄なんだなと。

◆それでも、そんな意思の無い自分が選択した人生を振り返って、こう思うのです。

「楽しかった」

不思議なことですよね。

きっと私にとっての幸せは、何かを成し遂げた楽しさよりも、そのプロセスを共に過ごした「誰か」との時間の方なのかもしれません。

「何をするか、どこへ行くか」より「誰とするか、誰と行くか」

この表現が私の人生にはピッタリなのだと思います。

現在は、ひょんなことから山大時代の同級生が立ち上げた会社(株式会社ctow)に参加し、「社長の名は」というTikTokメディアの制作に携わらせてもらっています。

山口大学で出会った大切な仲間たち。

そして卒業から10年近く経って初めて出会った鳳陽会東京支部のOB・OGの方々。こうした繋がりを大切に、これからも多くの「誰か」と出会い、そして感謝の気持ちを忘れずに過ごしていきたいと思います。

山口大学経済学部 64期 安平賢太郎

鳳陽会東京支部 新年会(編集者注・・・・筆者は右から6番目、メガネの君)
「社長の名は」 ミャンマーでの取材
山口大学体育会 剣道部

今でも思い出して胸が痛みます

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

学22期Y・Y

◆1月にkzさんの『名前のはなし ①結婚式の挨拶』と題する投稿がありましたが、
今回は私の対応を巡る44歳の時の失敗談です。
T社に勤務のサラリーマン時代の話ですが、リーガロイヤルホテル広島での特約代理店会総会での話ですが、地場の有力企業のF社長が会長されていて、我が部の部長が司会進行役で、私が事務局の担当者でした。

◆会長がメインの挨拶をされるのに上司の部長が馬場正三さんと紹介したのです。
会長の名前はF馬正三さんでした。
馬場正三と言えばジャイアント馬場ではないかと咄嗟に気付きましたが、空耳ではないかと我が聴力も疑いました。
会場は少しざわついたようですが。
私は予期せぬ出来事にどうして良いのかパニックに陥りました。
上司の部長に恥を掻かせるわけにもいきません。
しかし、大事にならないことをただただ祈るだけで固まっていました。😵💦

◆案の定、支社長同席の翌週の部長会では問題になりました。
後で調べるとジャイアント馬場の本名は馬場正平でしたが、流石に部長にはプロレス好きですか?とは聞けませんでした。
周りの人に確認し、総会の途中でも上司にメモを入れるべきでした。
こういった行事は何事なく終わって当たり前で、何かあると問題視されます。
あれから30年、今でも時々思い出して胸が痛みます。

注)写真はリーガロイヤルホテル広島から見た広島市内の眺望
(学22期Y・Y)

※コメントを宜しくお願いします。
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(学22期Y・Y)

悪しからぬ、良き輩たち

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

岡山支部 岡山Bさんからの投稿

◆期末試験中に急襲!

80年代の多くの経済学部生は、4年生になる春前にはゼミと卒論を残すのみで3年生3月末を迎える流れがあった。それだけに3年末の後期試験で如何に単位をそろえておくかは重要であった。

3年生の後期試験の勉強を電気こたつで勉強していた時の思い出…

農家の離れの二階にあった下宿、その周りには、ゼミの先輩の下宿も多くあった。一方、先輩との直接的交流は歓迎コンパ、追い出しコンパ等に限られていた記憶がある。しかし、登校した折に偶々出会ったゼミの先輩にはきっと“礼”を欠くことはなかったであろう。

ある夜半、何やら二階の下宿の部屋につながる階段下で誰かが、何かを騒いでいる?それから少しすると、明らかに数人がその階段を駆け上ってくる! また、何かのおちゃらけで同級生がやってきたのかな?と思っていたら、下宿のドアを荒々しくノックする輩!(ここからはあくまで輩なのである(笑))

ひょいっと空いた隙間から顔を覗けたのはゼミの先輩、、、既に4年生で就職が決まって、4月からの社会人生活を待つのみ。余裕の上に余裕が胡坐をかき、余裕をかましているゼミの先輩たち。。。(4月から背広を着ると、超大手のゼネコンO組、秤のNo1企業T精工、当時10人前後が毎年就職していたY銀行、卒業生が多く進んだH系のメーカーへ進んだ輩たち)

「ストーム!」って声を出され、押し入ってこられた。少し談笑したら、飲みに行こうと連れ出され、また近くにあった同級生の下宿に…今度はミイラ取りがミイラになって次の同級生の下宿を急襲!多くはいなかったかもしれないが、当時の学生特有の、少しおちゃらけ気分を満喫した。そして、その拘束時間は、決して長い時間ではなかった。

心配される試験の結果は?ちょっと大げさに言うと前夜の乱痴気騒ぎもものともせず、そんな中でも試験を翌朝には何食わぬ顔で平川校舎に向かう逞しさ!そして、単位も取得できていた。

◆40年近くたって思うには、文面だけではとんでもない輩たちもいろいろ配慮をされていた感がある。先ず見境なく訪問先を選んでいない。また、急襲する後輩下宿もそこそこ単位が揃いつつある後輩を選んでいそうだ。そして、そんなことが翌朝の試験に影響しそうな後輩は選んでいないのではないか?

更に、試験の結果からしても翌日試験の結果に前日の勉強が影響しそうな科目の試験日は選んでいなかったようだ。

あくまで士魂商才を校訓とする山口は、後輩を少し弄るときも士魂商才だったのかもしれない。

共に大学生活、下宿生活、ゼミの先輩後輩の関係を楽しもうと言う魂胆が見え隠れする。(笑)

その輩たちの首謀者は、超大手のゼネコンO組に就職された人に間違いない。これは確信に近い。そして、その声掛けに大乗り、悪乗りされた先輩3名。

◆しかし、30数年位たって同窓会で会うと立場が逆転?するから面白い。勿論、先輩は先輩ではあるが、超大手のゼネコンO組の先輩は一流企業サラリーマンとしての社会的縛りが遠因か、今ではどこまでも紳士なのである。一方、30数年のうちに体重は25kg増量、人相は強面、そして、べらんめい調でもやっていけるメーカー育ちとなっていたのは自分。

ビール瓶の首を持つと先輩に若干無理強い的な雰囲気も含め、おちゃらけて、笑いながら「飲め!」と言う。そして、集合写真でも、肩をそっと組むと言うよりは、少々乱暴に肩を抱え込むぐらいの勢いで先輩方の肩を鷲掴みしている写真が残っている。

山口を「心のふるさと」とする鳳陽会の同窓の友垣は、学生時代はもとより、数十年経っても相変わらずの友垣である。そして、どこか紳士でどこか荒くれもんで、そして、それまで各人が歩んできた道程の喜怒哀楽を共にし、今も昔も楽しめる友垣である。

岡山 B

名前のはなし ②上司の名前

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年2月 トピックス】

これは実話。

ただし、名前は仮名ということにしておこう。

◆そういえば、かつて総理大臣に二人の菅さんがいた。

一人は菅(カン)直人氏。

山口・宇部生まれ。宇部高出身で、民主党から出た総理だ。

もう一人、菅(スガ)義偉氏。

秋田出身で、自民党から出た総理だ。

菅(カン)という姓は西日本に多く、私が知っている中でも愛媛県にかなり多い。

愛媛でも今治に近い島嶼部では村じゅう菅(カン)の姓だという話も聞いたことがある。

他方、菅(スガ)は東日本に多い。

通常、苗字にはルビが振っていないものが多く、読み方を間違うことがある。

◆かつての勤務地で厳格な上司がおられた。

その上司の名は五十崎さん。

なかなか読めない。

庶務の高田係員が、その上司から叱られた。

上司の名前の読み方を間違えたからだ。

高田君は上司の難しい名前「五十崎」の読みで、

「五十」の部分を「イカ」と覚えたまでは良かったが、

最後の「崎」を濁って読み、上司を「イカザキ」さんと呼んでしまった。

上司は気を悪くし、「私の名前は濁らない。イカサキだ」として、

高田君はお叱りを受けた。

「人の名前の呼び方を間違えるのは大変失礼に当たる。いいかい、高田君。私の名前は濁らない!」

高田君も偉いもので、その時、「私の名前もタカダでは濁りません。タカタです。濁りません」と、蚊の泣くような声で上司にもの申したという。

名前の呼び方は難しい。

(学23期kz)

節分の日

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

岡山支部からの投稿

(岡山 B)

◆国立天文台(暦計算室)というところが今年の”節分”の日程について、ある発表をしています。
節分は2月3日…NO.NO.NO〜nです(笑)地球の公転周期が1年きっかりでない、そして閏年の調整などをしても、調整しきれない時に節分が”ずれる”そうです。
世間に目を向けると世の中の常でなんともならない柵(しがらみ)、檻(おり)…ありますよね…
今年の節分は「2月2日」❢

◆過去を振り返ると既に2021年には2月2日に、その21年と言うと3日でなくなったのは1984(昭和59)年2月4日以来37年ぶり、2日になるのは1897(明治30)年2月2日以来124年ぶりであったと、ものの本にある。
しかも2025年からは暫く”4年”毎に2月2日になると聞くとなお不思議!
昨日の記憶さえ怪しいが、何か大きな時の流れの中に生かされている自分がいる♫

(岡山 B)

大相撲初場所千秋楽を東京レノファ山口サポート会有志で観戦

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

(学22期Y・Y)


◆1月26日(日)の東京は快晴で肌寒い一日でしたが、東京レノサポ会世話役の野村徳一さんに声掛け頂き、国技館枡席観戦が実現しました。
開場時間の10時に合わせて両国国技館前に集合すると先ずは参加予定のご家族を含め12名のメンバーの内、5名が参加。
レノファ山口の小山文彦会長も参加されていました。
3名は何とレノファ山口のユニフォーム姿でした。
その後、三々五々、皆さんのご都合に合わせての参加となりました。

◆小山会長はテレビで大相撲観戦はされているようでしたが、生観戦は初めてのようで大相撲の迫力や良い所に圧倒されたようでした。
IT関連の企業の経営者らしく、サッカー以外のスポーツの良いところを運営に取り入れようという姿勢を感じました。

◆相撲はバワーのカザフスタン出身の金峰山の逃げ切りかと思われましたが、先場所から応援し始めた王鵬が直接対決で金峰山を破り、豊昇龍を含め3人の力士の三つ巴決定戦となり大変な盛り上がりとなりました。
2連勝した豊昇龍が優勝決定戦を制し、来場所の横綱挑戦に繋いだかと思われましたが、横綱推挙で新横綱誕生の動きも。
今場所は遂に一人横綱の照ノ富士が引退となりましたが、下半身が超人的でスピード相撲の豊昇龍は魅力が一杯です。
応援している阿炎は7勝4敗から4連敗して負け越し残念でしたが、これからも幕内では阿炎、平戸海、王鵬を主に応援します。

◆山口市関連では若輝元(将軍改め)が序二段で6勝1敗の久々の好成績。
幕下の千代大宝は2勝5敗と負け越し。

◆表彰式の後は神送りの儀式を見届け、お開きとなりましたが、その後は有志4人で秋葉原の居酒屋で21時迄一杯やりました。
今年もレノファ山口の生観戦&パブリックビューイング参戦で応援の決意を新たにしました。
(学22期Y・Y)
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新社会人歓迎ミニ新年会

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年1月 トピックス】

◆昨日、標記会合を三田の鳳陽会東京支部事務所で若手役員を中心に開催。

今回の会合には、昨春卒業した社会人1年生(小鳥さん、柚木君)の他、52期で新会員山口夫妻から参加表明あり。

また64期で新進気鋭の実業家窪井さん・安平さん(㈱ctow)も参加して頂いたほか、途中から松永理事長も駆けつけて頂きました。

◆会合では、目玉として正月にHPに投稿してくれた窪井さんからプレゼンを。

起業に至った経緯、事業の現況、今後の抱負を語ってくれ、その際ユニークな編集スタイルのヒット作「社長の名は」の作品の一部(220万回再生、コメント2500)を披露。

失敗・挫折から成功を引き寄せる感動的なストーリーに拍手が起こりました。

◆新1年生の皆さんには鳳陽会でネットワークを広げ、この先大いに活躍して頂きたいと思います。

また、52期の山口夫妻。このご夫婦は経済同期のカップルだそうです。

東京支部では50期前後の会員が少なく、新規加入を歓迎いたします。

(鳳陽会東京支部事務局)