栄光の男 逝く

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年6月 トピックス】

◆1974年10月、当日小学校2年生であった私は、その人の引退試合を見るために、学校からの家路を急いだ。当時の福岡市西区(城南区)七隈は、今では想像し難いのどかな場所であった。

放課後に校庭で野球の真似事をして帰るのが日課であったが、「今日は長嶋の引退試合やけん、早よ帰るけんね、じゃあねバイバイ」 と稲刈りが終わった稲田の横を全速力で走った記憶がある。

この年の巨人軍は、V10を達成できずに、与那嶺監督率いる中日ドラゴンズにペナントを奪われた。ドラゴンズは、星野仙一や矢沢が投打で活躍していた。

引退試合というのに、平日のデーゲーム。

◆家に帰ると既に試合は始まっていたので、午後2時か3時の試合開始であったのだろう。

試合終了後のセレモニーで照明に照らされた

ブラウン管の中の長嶋の姿は今でも鮮明に覚えている。

ただ、「我が巨人軍は永遠に不滅です」の意味が分からず、翌日学校に行って「先生長嶋の言ってた永遠に不滅って何ですか?」

と朝一で聞きに行った。

◆この当時の地元福岡の球団は、太平洋クラブライオンズ。西鉄ライオンズの親会社西日本鉄道が経営不振で球団を売却。

ライオンズという名前はその後、クラウンライター、そして西武へと引き継がれて行くが、10年以上Bグラスが続き、平和台球場はいつも閑散としていた。

余程球団経営が厳しかったのか、真弓,竹之内などの主力選手でさえも、星の原団地という公団住宅に住んでいた。

◆私の親父は、西鉄ライオンズ黄金期に、全国紙のスポーツ担当記者で西鉄の番記者であった。

すでに20年前に他界したが遺品の中にあったスクラップブックには、親父が書いた記事がたくさん残されていた。

中西、仰木、稲尾などの名選手の活躍はもちろんの事、昭和33年の巨人との日本シリーズで3連敗の後の4連勝、奇跡の大逆転という野球史に残る試合では翌日の朝刊に戦評も担当している。

そこには、第四戦以降、西鉄バッテリーとベンチのスタッフが、長嶋の打撃を分析研究の末、徹底的に長嶋を抑えた事が流れを変えたと書かれてあった。

ご冥福をお祈りします。

大学37期 上野啓

1974年10月14日  長嶋引退
出典:時事通信

コメントを残す