山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2026年2月 トピックス】
◆清正公を崇敬する乃木将軍
前稿(その①、2/23日掲載)で述べたように、西南の役を契機に乃木は熊本城を築城した加藤清正を生涯崇拝することとなり、清正公の慰霊顕彰の祭典を乃木自身が祭主となって執り行うこともしている。
1回目は明治11年、西南の役に従軍した将校を連れての祭典を挙行した。
熊本・加藤神社でのことだ。
この時奏上した祭文には清正公の偉業として「戦術眼、築城技術、治民、経済、水利」の功労を讃えている。
また、2回目は明治43年、東京で。
学習院院長当時、当時築地の旧海軍士官の厚生施設・水交社で開催された清正公300年祭(300回忌)の発起人となった。
以下、清正公と乃木将軍の行い、身の処し方についてみてみよう。
◆忠義
加藤清正は秀吉に仕え、秀吉亡き後は天下を治める力量のある武将を家康と見定めて家康に仕えたが、江戸に向かう折は必ず秀吉の旧恩を忘れることなく、秀頼のもとを訪ねている。
秀吉への忠誠だ。
この点、石田三成とは違う。
乃木希典も明治天皇に忠誠を尽くしていた。
◆施し
名もない薄幸の子への施し
清正公が参勤交代で美濃・大井に差し掛かったところ、盲目の女乞食に出会う。
身の上話を聞いた清正公、生活に不便が無いよう相当な資金を渡している。
乃木将軍にもそうしたエピソードがある。
歴史ウォークで廻った港区赤坂の旧乃木邸には、少年に施しを与える乃木少将(当時)の銅像が立っている。
金沢で出会った少年だ。
辻占売りで一家を支える8歳の少年。
彼から身の上話を聞き、少年に施しを与えた。
後にその少年・今越清三郎君は長じて金箔師として大成し、人間国宝にまでなった。
◆部下思い
加藤清正の「虎退治」も、部下が虎の犠牲になったことから虎を退治し、被害を食い止めたというのが真相だったという。
また、朝鮮では石工の高い技術に感服し、石工を手厚く接している。
清正の日本への帰国に際しては、日本への移住を勧めると、200名以上の石工が応じ、中には清正の死に際し、殉死した石工も出たという。
乃木将軍の部下思いの話も残っている。
日清戦争当時、防寒コートの本国からの送達が遅れていたことがあった。
将校用のコートが届いたため部下が乃木将軍にコートを持参すると、兵士用のコートが未だ届いていないことを知った乃木将軍はコートに腕を通さなかったという。
◆創意工夫
加藤清正は築城、治水、武具の改良を行っていることはよく知られている。創意工夫による改良だ。
また乃木将軍の乃木式義足は有名だ。
武具だけではない。一時、那須に居たときには農具の改良も手掛けている。
◆清正公と乃木将軍
乃木神社の髙山亨宮司は加藤清正と乃木大将の類似点について触れておられる(注)。
高山宮司は、両者は相似ていると説かれる。
乃木大将は青少年の頃、乃木神社横の正松神社に祀られている玉木文之進、吉田松陰の影響を受けた。
しかし、長じて乃木希典が軍人生活に入った後、ひたすら尊敬し、軍人としての気概、作法を学んだのは加藤清正公であったようだ。
身の処し方が似るのは乃木将軍が清正公を手本としたことによる結果であり、両者の身の処し方、行動が似通うのは必然なのだろう。
(学23期kz)

(注)
「乃木将軍が經験した出會ひ」 明示聖徳記念学会紀要(復刻第44号)平成19年11月
「清正と乃木将軍」(『加藤清正のすべて』安藤英男編 1993年人物往来社 に収録)

