1970年代 青春の下宿⑤

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2025年12月 トピックス】

 1970年代、私は山口大学経済学部に入学した。蛮カラの気風が色濃く残る鳳陽寮・北寮で2年間、暮らした後、3年生になって山口県庁近くの下宿に引っ越した。

 

◆定宿は惣野旅館

 私は、その昔、学生事業家だったことがある。

東京からフォーク歌手らを山口に呼び、コンサートを開催した。

当時、フォーク歌手ら一行の交通費と宿代、そして食事代は主催者側が負担していた。

業界用語で「アゴ(食事)、足(交通費)、枕(宿)つき」といっていたと記憶する。

 

 定宿は惣野(そうの)旅館だった。

一の坂川沿いの風情ある旅館。

旅の宿って感じだ。

惣野旅館の創業は明治39(1906)年。

ちなみに山口高商(山口大学経済学部の前身)が全国3番目の官立高商として開校したのが明治38(1905)年である。

惣野旅館は山口高商とともに歴史を刻んできたのだ。

 フォーク歌手らはこの老舗旅館を気に入ってくれた。

◆たった一人の抵抗

 たった一人だけ、抵抗した男がいる。全国的に有名なあのフォーク歌手である。

彼を惣野旅館に案内した。

ところが、彼は旅館に入ろうとしない。

こんなところに泊るのはいやだ。ホテルをとってくれ―と主張する。

私は驚いた。説得した。

 「この惣野旅館は山口、そして旅情を味わえる宿です」

 「あなたにはこの宿に泊まっていただきたい。ホテルはとりません」

彼は説得に応じ、しぶしぶ、旅館に入った。

 

翌朝、気になった。

私は県庁近くの下宿を出て、自転車をこいで惣野旅館に向かった。

彼に会った。

 「どうでしたか。この宿は」

 彼は照れ笑いしながらいった。

 ―うん、よかったよ。

 そうでしょう。 

私もうれしくなったよ。

           

◆フォーク歌手哀歌

別の若いフォーク歌手の話。

彼はギターを弾くテクニックが抜群だった。

まるで、2本のギターをひとりで同時に弾いているかのようだ―と賞賛されていた。

山口での公演が終わった後、彼とマネージャーを道場門前の酒場「大万」に案内した。安くて、おいしい酒場だ。

彼は上機嫌で飲み、かつ食べ、そして語った。

東京のフォーク歌手の赤裸々な現実を。

収入は不安定だ。ギャラは安い。安アパートにひとりで暮らしている。

食事は鍋にお湯を沸かし、即席ラーメンを2食分、ゆでる。そして生卵を一個、落とす。

鍋のまま、ラーメンをすする。

ほぼ毎日、こんな食事だそうだ。

大万のおでんや肉野菜炒め、ギョーザは彼にとってごちそうといった。

 華やかに活動し、収入も恵まれているのは、才能あふれるごくわずかなフォーク歌手だけ―という現実がよくわかった。

 ただ、貧乏だけど、彼は意気軒高だった。

【続く】

 (鳳陽会東京支部 S)

惣野旅館

One thought on “1970年代 青春の下宿⑤

  1. Sさん、惣野旅館は懐かしいです。
    受験の時に宿泊したのが惣野旅館でした。
    到底受からないと浪人覚悟で受験しました。
    合格して担任の先生に報告に行ったらクラスの受かると思っていたクラスメイトが不合格となり、期待していなかった私が合格していて、先生は納得がいかないのを敏感に感じ取りました。
    惣野旅館は相部屋て眠れないのでは心配しましたが、熟睡出来て、実力以上の力を発揮することができました。
    その後、入学して、同部屋だった人でやぁやぁと挨拶する人も何人かいました。

    惣野旅館は入学して入った某文化系サークルの歓迎会の場所でした。
    私は飲み過ぎて、なぜか泣き上戸とわかり、S部長に介抱されたのが忘れられません。
    実質5ヶ月位の在籍でしたが、その後、S部長は大手証券に入社され、40過ぎに役員になられ、その後も昇進、大出世され、吃驚しました。
    鳳陽会東京支部総会でお会いし、その時の御礼を一言、言いたいのですが、一度だけ名簿で見たことはありますが、当日欠席のようでした。

    大萬はご夫婦に可愛がられた常連の酒飲みの友人のM氏(先日の日本寮歌祭に初参加)に誘われて何度か行きました。
    ご夫婦の顔は今でも鮮明に覚えています。
    一度だけ、初挑戦の焼酎を飲み過ぎて、意識が無くなり、気がついたら下宿近くの日赤病院辺りをふらついて歩いました。
    惣野旅館と大萬は懐かしい山口の思い出です。

コメントを残す