◇入寮
1970年代、鳳陽寮は山口市亀山のふもとに健在だった。学生たちは伝統を誇る寮で暮らし、青春を謳歌した。
私が入寮したのは昭和45(1970)年春。旧制高校を思わせる蛮カラの気風が荒々しく、なにやら恐ろしく感じたものだ。
鳳陽寮は5寮で構成されていた。南寮、中寮、西寮、北寮、そして西北寮である。私は北寮2階の部屋を割り当てられた。北側廊下の窓ガラスはことごとく割れ、吹きさらしの状態だった。隣室の先輩の部屋には戸がない。真冬には雪が枕元に吹き込んだ。
それぞれの寮には独自の気風、伝統があった。寮長がいて、寮歌がある。ストームの流儀も異なった。
4月、それぞれの寮で新入寮生歓迎会が開催される。最初に覚えるのが寮歌だ。
【鳳陽寮歌】
「花なき山の 山かげの
月も宿さぬ 川の辺の」
【山都逍遥歌】
「春を弔う落英か
朧(おぼろ)に流る 椹野川」
ときは春。一の坂川河畔の桜は満開だ。惣野旅館でしこたま酒を飲み、声高らかに寮歌を歌いながら、帰寮する。心地よい。ああ、快なるかな、快、快・・・。
◇ストーム
コンパの後は、ストームだ。北寮寮長が寮務室でマイクを握り、館内放送する。
「ただいまより、北寮がストームを行う」
南寮の全寮生が勢ぞろいして待ち受ける。南北寮生がそれぞれの寮歌を歌う。そして最後に肩を組み、山都逍遥歌を高唱する。北寮生は南寮生の見送りを受け、意気揚々と次の中寮、そして西寮、最後に西北寮へと向かうのだ。西北寮の寮歌は“焼酎讃歌”だった。私は好んでよく歌った。
西寮のストームは独特だった。通称“パンツストーム”。西寮の寮長が館内放送でストーム開始を告げる。
鳳陽寮は騒然となる。全寮生がそれぞれの洗面場に飛び出し、バケツに水をためて待機する。そこへ西寮生が走って来る。真冬でもパンツ一丁だ。盛大に水をかけ、大騒ぎとなる。
寮ごとの公式ストームとは別に個人ストームもあった。寮生は酔って帰寮し、高揚した状態で「ストーム」と叫びながらひと部屋、ひと部屋すべて回る。寮生は就寝中でも「ストーム」の声が聞こえると、布団をたたみ、正座して迎えるのが不文律だった。このとき、出身高校と学部、姓名を大声で名乗るのが流儀である。
「福岡県立〇〇高校出身、花の経済学部1回生、〇〇 〇〇」
経済学部生は「花の経済」と美称を付けて名乗る。経済学部生は誇り高かった。
◇寮生の日常
鳳陽寮は、自治寮だった。
学生が自らの力量で寮を運営していた。重要な事案は寮生大会で議論し、決した。
外部からの電話を取り次ぐのも学生(当番制)だ。館内放送で呼び出す。
「〇寮の○○君、電話です」
女子学生からの電話が入ると・・・。
「〇寮の○○君、お電話です」
違いがわかるだろうか。「お電話」が入ると、寮生は寮務室にバタバタと駆けて行ったものだ。
大食堂で食事をした。若い女性スタッフが献立を考えていた。スコッチエッグなど、しゃれた料理を初めて食べたのも鳳陽寮の食堂だった。
新入生向けに社交ダンス講習会も開かれた。ダンス上手の先輩が指導する。踊る相手は寮生(男子)・・・。1~2週間後、ようやく椹野寮生(女子)と合同練習を行うことができた。
酒を飲みに行くこともあった。道場門前の「大万」。日本一安いというふぐ鍋が名物だった。確か、580円だったと記憶している。
深夜、空腹になってくると、寮生たちは町に出かけた。行先は「蛇の目寿司」。寮生が寿司を注文することはまずない。カツ丼だ。うまかった。満腹になった。
◇寮祭
鳳陽寮が最高潮に盛り上がるのが寮祭だ。寮祭の準備は樽みこしを作ることから始まる。5寮がそれぞれ工夫して作る。
北寮生は一の坂川近くの造り酒屋(蔵元)に押し掛け、空いた酒樽を担いで帰る。続いて長い縄を寮の廊下に伸ばし、しめ縄を作る。寮生が総出で縄を持ち、先輩の掛け声に合わせ、より合わせていく。大相撲の横綱作りと同じ要領だ。作業を繰り返すと、太いしめ縄が出来上がる。
2本の竹の上に酒樽を組み上げ、しめ縄で括り付ける。笹の葉を飾って樽みこしの完成だ。
寮祭当日、寮生たちはみこしを担いで道場門前を練り歩く。市民があたたかく、迎えてくれた。そうだ。あの頃の山口は「学生さん」を大切にしてくれたように思う。
ところが、伝統を誇る鳳陽寮は老朽化が進んでいた。山口大学経済学部の平川移転も重なった。鳳陽寮は廃寮となることが決まった。
1970年代。寮祭が敢行された。寮祭最終日の夜、ファイアーストームが行われた。寮生たちは焚き火を囲む。全員、肩を組み、山都逍遥歌を高唱した。
通常は逍遥歌4番の「消えゆく鐘に目覚むれば 弦月白し鴻の峰」を2回繰り返して終わる。
だが、この夜は違った。何度も、何度も、いつ果てることなく繰り返した。鳳陽寮の終焉を惜しむかのように。若い歌声が鴻の峰に消えていった。
(元鳳陽寮北寮寮長)