山口市歴史雑感

はぼ半世紀前に山口市市街地で4年間の学生生活を送った。1年目は山口大神宮近くの学生寮(松風寮)で、2年目からは瑠璃光寺にほど近い上竪小路に下宿した。

今、思えば毛利藩庁跡を中心にそこいら一帯は明治維新に関わる長州藩士が活躍した史跡の宝庫であったが、その当時は歴史の教養に乏しくたとえ史跡に出会っても何の感慨も持たず目の前を通り過ぎるだけであった。

そもそも竪小路自体が古びたしもた屋が立て込んだ何の変哲もない道に過ぎないと思っていたが、下宿の前の通りは高杉晋作や久坂玄瑞も駆け抜けた萩往還の山口側の出入り口であったとは今振り返ってみて己の無知にあきれる。

社会人となって司馬遼太郎を初めとする作家、歴史家の著作やドラマに触れて幕末から明治にかけての劇的な変化の詳細を知ることとなり、今になって十分に時間的余裕のあった学生時代に維新に関係する史跡に関心を持たなかった自分が少し悔やまれる。

特に最近になって知ったのは、戊辰戦争にて使用された官軍の錦の御旗が山口市後河原(正確には水の上町)にあった藩の養蚕所の一室で秘密裏に製作された事実である。

鳥羽伏見の戦いにおいて京の東寺に薩長軍の錦旗がひるがえったことで、幕軍側が戦意を喪失したエピソードは余りに有名であり、映像の中においても官軍が勢いを増す象徴的なシーンとしてよく登場するが、その錦旗が下宿から数分先の一の坂川河畔において秘密裏に製作されたとは全く知らなかった。

ネットで検索すると、現在は現地に「錦の御旗製作所跡」として案内板や板塀が山口市により整備されているそうだが、石碑はかなり以前から設置されていたとのことで学生時代でもこの事実を確認することができたようである。

この錦旗が誕生する経緯は司馬遼太郎の作品「加茂の水」に記されているが、岩倉具視の陰謀に近い企てに主要なプレーヤーとして大久保利通や品川弥二郎が参画したもので、その後の歴史に及ぼした影響は誠に大きく興味深い。

(鳳陽会東京支部 Y生)