乃木大将その1

乃木大将 その1

乃木希典(まれすけ)の父、稀次(まれつぐ)は長州藩の支藩である長府藩の江戸詰め藩士であった。このため乃木は長府藩上屋敷があった麻布で生を受け、赤坂(乃木邸)で没する。乃木が最初に長州・山口に向かったのは、父が帰藩を命じられた9歳の時。山口に身を置くのは元服を挟み19歳までの10年間だ。

◇学者への夢

希典(まれすけ)の幼名は無人(なきと)。弱虫であったため、名に掛けて「泣き人」と揶揄(やゆ)されたようだ。両親が無人を厳しく育てる様子が、昭和初期の国定教科書に載ったという。私も母から幾度となく聞いた。両親は軍人として勇ましく育ってほしかったのだろう。

だが、無人は学者の道を夢見る。自然が好きで、情緒豊かな乃木。己の向き、不向きを悟っていたからであろう。乃木が萩で塾を開いている親戚筋の兵法学者・玉木文之進の門を叩くのが15の時。

◇軍人乃木

しかし、世は幕末。第二次長州征伐が始まった頃にあたる。長州報国隊として幕府軍を迎え撃つ立場で戦の奔流に組み込まれていく。乃木が本格的に軍人としての経歴を積み始めるのが、22歳の時からだ。その後、西南戦争、日清・日露の両戦争を経て「軍神」となる。

乃木の性格は清廉実直、無私無欲。器用な男ではない。軍人としての資質について時には「愚将」「戦(いくさ)下手」との評価も下されたが、そうした声には言い訳はしない。行政官としてはどうか。台湾総督時は政策運営の失敗、部下との軋轢から短期のうちに職を辞している。同じ長州の桂太郎のように政治に近づくことを嫌い、さらなる出世につながる軍中枢への誘いも断った。

乃木の夢は学者であり、教育者である。漢詩や和歌をよく嗜んだという。また、ユーモアも備えており、戦場での束の間の憩いのひと時、即興の都々逸(どどいつ)で場を沸かせたことが多々あったようだ。

◇軍服を愛した乃木

39歳で1年半ドイツに留学するが、ドイツから帰った後の乃木は謹厳・質素を徹底、奢侈(しゃし)を嫌い、軍服姿を常としたという。

軍服姿をこよなく愛した乃木。軍服姿の乃木は軍人であること、また勇ましくあることを願った両親への孝行だったのではないか。さらに内面弱き乃木にとって、己の身を包み隠す格好の出で立ちではなかったか。

武士道を体現したとされる殉死。乃木は軍服のボタンを外して腹を切った後、ボタンを掛け直し、隙のない軍人姿として果てたという。

(元山口大学経済学部生k)