まぼろしの大内文化

 ◇“パトロン”大内氏

学生時代に歴史や文化に興味がなかった方でも、さすがに瑠璃光寺・五重塔や雪舟庭を訪ねたことはおありだろう。よその地から事前学習することなく、突然学生として住み着くことになった二十歳(はたち)前の我々。山口市内を見渡しても、これら有名どころのほかに、県外から訪ねてくる身内や友人を案内したいような歴史的建造物を探すのは難しかった。この点、京都は別格だ。京都では歴史的建造物を始めとする文化財の蓄積が多く、内外への発信力はあまりに大きい。このためか、山口に付けられる「西の京」というレッテルには違和感が付いて回った。しかし歴史を振り返ると、室町時代には応仁の乱をはじめとする多くの戦乱から逃れてきた僧侶、学者・文化人、公家が山口へ集まり、京を凌ぐほどの文化的な隆盛を見せたという。この時代に日朝・日明貿易や石見(いわみ)の銀採掘による財力を背景に文化人のパトロン役を務めたのが大内氏であった。この大内氏、フィレンツェ・メディチ家のジパング版というのは言い過ぎか。

  ◇24代弘世(ひろよ)と京風街づくり

平安時代には権介(ごんのすけ)として周防国を統治した大内氏。南北朝末期に弘世は長門国を加え二国を平定した後、東は石見(いわみ)(島根)、安芸(広島)、西は九州へと勢力を伸ばし西国の雄となる。2代将軍義詮(よしあきら)に拝謁すべく上洛した折、京の街並や文化に感銘を受け、京に地形の似た山口に本拠を移し、一の坂川を鴨川に見立てて京を手本とした街造りに取り掛かった。京から招いた姫君が寂しがらぬよう、宇治から取り寄せた源氏ボタルを一の坂川に放ったという話が残る。

◇25代義弘(よしひろ)と瑠璃光寺・五重塔

続く義弘の代になると室町幕府に反旗を翻した山名氏討伐で功績をあげ、豊前のほか、関西の紀伊、和泉の守護をも兼ね、一段と勢力を増し、室町時代の実力者となるに至る。一時は蜜月関係にあった将軍・足利家と大内氏だったが、勢力を拡大させる大内氏に幕府は警戒を募らせ、とうとう義弘は3代将軍義満に謀反の疑いをかけられ、討たれ、敗死する。後年兄義弘の菩提を弔うために弟盛見(もりみ)(26代)が建立したのが瑠璃光寺・五重塔だ。

◇28代教弘(のりひろ)・29代正弘(まさひろ)と雪舟

涙で鼠を描いた雪舟。京の寺に入り修行の傍ら絵を学ぶが、水墨画の本場、明に渡ろうと「西の京」山口へ移り住み庵を結んだのが34歳の時。柳井港から遣明船で明に渡り、学んで帰国した雪舟は応仁の乱で荒れた京には上らず、山口を始めとする九州・中四国に留まる。雪舟の技法は尾形光琳、狩野探幽、長谷川等伯ら後世の大物に影響を与えたという。また雪舟は全国各地に庭園を造っており、山口の雪舟庭は三方が山林、中に池を配し、日本庭園の代表作とされる。また、松尾芭蕉に影響を与えた連歌の宗祇法師も、正弘と交流があったことから、山口ではかつて連歌が大変盛んになったという。

◇31代義隆とザビエル

家臣の謀反により義隆の時代で大内氏が滅ぶが、公家文化を好み、漢学や儒学などの学問、連歌や管弦などの文化に通じていた義隆の時代が大内氏の最盛期とされる。ザビエルのキリスト布教の拠点として義隆が与えたのが廃寺の大道寺。これが「ザビエルの塔」と称せられ、そこで日本初のクリスマスが開かれている。また、献上品の「珍陀(ちんだ)酒(しゅ)」と呼ばれたポルトガル産赤ワインを最初に口にしたのも織田信長ではなく、義隆であった。

  ◇山口の光景、今と昔

当時の山口の繁栄ぶりはザビエルや、筆の立つルイス・フロイスの記録に残されている。その時代は間違いなく「西の京」であったろう。しかし、「形あるもの」は室町末期の戦乱でその多くが焼失したという。「西の京」という名前こそ残るが、今日では街中で誰の目にも映る歴史的文化遺産がほとんど姿を消した山口。我々が目にした山口は焼失後の「西の京」だったのだ。一度、大内文化最盛期の山口を訪れ、「そうか、これが”西の京”だったのか。なるほど!」と唸ってみたかった。(学23期kz)