青春のアルバイト ①

1970年春、私は山口大学経済学部に入学した。

山口市の亀山の近くに建つ鳳陽寮・北寮に入寮した。

 教養部の講義は平川キャンパスで行われる。鳳陽寮から

自転車で平川に通った。

 大学の講義に興味があったので、4月は真面目に出席した。

ところが、講義はつまらない。知的好奇心を刺激しないものだった。

 5月の連休明け。天気のいい日だった。自転車に乗って平川に向かったが、

講義に出る気がしない。Uターンして山口の旧市街や寺、神社を巡った。

ーそうか。講義に出なくても、いいんだ。

 こうして、講義には出席しなくなり、その代わりにバイト生活が始まった。

      ◇昼食は社長家族とともに

 大学の掲示板にバイトの求人案内がたくさん、貼られていた。

中には「経済学部の学生に限る」という求人案内があった。

 山口市の大手文房具店もそのひとつだった。主な仕事は官庁や会社などへ

の文房具の配達だ。朝から、取引先を回る。新規の注文もとる。

 昼食時は店にもどる。一般従業員は弁当を食べるか、食堂に出かけた。

ところが、経済学部の学生である私はリビングで社長の家族とともに

昼食をとる。特別扱いだった。社長には妙齢のお嬢さんがいた。彼女も同席して食事をする。昼食が楽しみだった。

      ◇車体から白い煙

 私は車の免許をとった。バイトの幅が広がる。

バイト先は石材会社だった。重いブロックなどをトラックに積み、現場に運ぶ。

石材の揚げ降ろしも仕事の一部だ。重労働だった。

 ある日、私はひとりで運転席に乗り込み、トラックを発進させた。アクセルを踏むが、なかなかスピードが出ない。荷台に石材を積み過ぎたか。アクセルを強く踏んでしばらく走った。すると、車体から白い煙が立ち上るではないか。どうしたのだろう。停車して点検した。なんとタイヤが過熱して燃えていた。

 原因は私のミス。サイドブレーキを引いたまま、トラックを走らせていたのだ。

社長にお詫びした。社長は「辞めろ」とはいわなかった。だが、わたしは責任をとって自主的に辞めた。

次は、山口市内の外郎の老舗で働き始めた。車で山口県全域のドライブインを巡る。土産物コーナーで外郎の売れ行きをチェック。売れて品薄になったところには納品する。ときどき、老舗の社長が同乗した。社長は釣り好きだった。釣りの自慢話をよく聞かされたものだ。

居心地がよく、1年ほどバイトを続けた。

        ◇危険の報酬

 私のバイト生活の中で、最も効率が良かったのは山陽新幹線の工事だ。

山口に特殊な接着材の会社があった。この会社がトンネル工事の一部を請け負っていた。

 午前9時、会社に集合する。その日の工事の打合せを1時間ほどやる

午前10時過ぎ、会社を車で出発する。徳山郊外の工事現場に向かう。

徳山に着いたら、もう、昼前だ。ドライブインで食事をする。社長は太っ腹だった。

「なんでも、好きなものを注文していいよ」

しめしめ。ありがたい。ゆっくり昼食を楽しむ。

 午後1時から、トンネル工事現場で作業が始まる。上部から岩石や建材の一部がときどき、落下してくる。ヘルメットをかぶって作業するが、かなり危険だ。午後4時、作業終了。後片づけをして夕方、山口に戻る。実質労働時間は3時間である。“危険の報酬”が1日いくらだったか、記憶にない。一般のバイトより割高だったと思う。

現金を手にした私は、勇んで道場門前の酒場「大万」に向かうのである。

 (元山口大学経済学部生 S)