関門海峡ものがたり

―海上交易と富―

社会・経済を支える物流。船は少ない人員で大量の物品を運ぶことができる。このため太古の昔から海路の要衝地には荷が集まり、それを扱う商人が住みつき、富が生まれる。幸運なことに山口には下関があった。

 ◇莫大な富をもたらした外国貿易

交易相手が外国の場合には、大きな利益が生まれた。相手国が欲する産品を持ち込み、帰りは希少な産品を日本に運び、捌いた。また、中世においては海賊行為を行う倭寇や密貿易者を押さえるため通信符(日朝貿易)や勘合符(日明貿易)など割符を用いた貿易が行われたが、そうした貿易制限下では莫大な利益を産んだ。

 ◇日朝貿易と大内氏

主だった各国大名は源・平や藤原氏を出自とするが、大内氏は百済の第三王子・琳聖太子(りんしょうたいし)の末裔であると伝えられている。大内氏はそのように自称し、朝鮮との交易を有利に進めたほか、倭寇取り締まりでも功績を挙げたことで、当時日朝貿易の仲介役を果たしていた対馬の宗氏とは別ルートでの朝鮮との直接取引で富を蓄えた。

大内氏が潤っていた時のこぼれ話が太平記に残る。14世紀半ば、第24代大内弘世が2代将軍足利義詮に謁見するため上洛した折、数万貫の銭貨や唐もの(舶来品)を幕府要人・文化人のほか、貧しき京の民にも分け与え、好評を博したと記されている。この時は弘世が銀鉱を抱える石見の守護となる以前のことであり、富の出どころは銀の採掘ではなく、まさしく貿易であった。

しかし、これで終わりではない。日朝貿易が正式に始まるのが、次の25代義弘の時からというから驚く。14世紀末の話だ。

 ◇日明貿易–博多商人の取込みと貿易独占

15世紀に入ると日明貿易が盛んになる。明の始祖・洪武帝も海禁(官船以外の交易禁止)による割符を用いた朝貢貿易を行う。これは日朝貿易同様、倭寇や密貿易に悩まされていたからだ。我が国の相方は3代将軍足利義満。はじめは幕府直営船が使われたが、次第に大寺院(天龍寺船)や大名に勘合府が割り当てられた。この朝貢貿易、朝貢品に対しては対価以上の代価が支払われた上に、その物資を売り捌くことも認められたため、一度の渡航で元手の5~6倍の利益が出たとされる。中でも中国で得た絹では20倍の利益が出たようだ。

この日明貿易は幕府の弱体化に伴い、私的貿易が中心になっていく。

こうした中、大内家28代教弘(のりひろ)が筑前国の守護に就き博多を擁することになったため、勘合貿易の担い手は大内氏=博多商人と細川氏=堺商人との双寡状態になるが、結局両者の覇権争い(寧波の乱1532年)を大内氏が制したことで、勘合貿易は大内氏の独占状態となった。ここから大内氏に莫大な富が生じたことは言うまでもない。

 ◇「鎖国時代」に空前の繁栄を誇った西回り国内航路 

続く15世紀後半から17世紀初め、即ち戦国から江戸時代にかけての貿易はどうか。信長(南蛮貿易)、秀吉(朱印船貿易)も経済的・軍事的な面から貿易に積極的だった。また、ヤン・ヨーステン(蘭)やウィリアム・アダムズ(英)を貿易顧問に迎えた家康も貿易に熱心だった。しかし2代将軍・秀忠を経て、3代・家光の時になると鎖国体制が固まり、貿易は「出島」に限られたが、この間日本海を縫って通る国内航路の西回り廻船が未曾有の繁栄を見せたという。

特筆されるのが北前船だ。北海道の松前から日本海の各港に寄港しながら下関を経由して大阪・堺に産品を届け、また逆の航路を辿る。東回りは波が高く、危険な航路とされ、西回りが多用されたようだ。

西回りの船は必ず下関を通る。そこで長州藩が設けたのが「越荷方(こしにかた)」という藩営企業体だ。そこでは「越荷」と呼ばれる北前船の荷物に関する①担保金融(資金貸付)、②買取り販売、③一時保管などで利を得た。

この「越荷方」は当たり、莫大な利益を上げたという。ここで得た富で長州藩は軍艦を手に入れ、洋式兵器を揃えることで幕末での存在感を高めていった。

 ◇和製「スエズ運河」の関門海峡

関門海峡は放っておけば砂が溜まり陸続きになるという。このため古くから絶えず浚渫(しゅんせつ)作業が行われてきた。その意味で関門海峡は半ば「運河」と言える。下関出身の直木賞作家・古川薫氏は関門海峡を日本の「スエズ運河」と呼んだ。

この古川氏、1925年生まれで、2018年に92歳で没するが、出身校をみると山口大学卒とある。残念ながら経済学部(当時は「経専」)卒ではなかった。また文理学部・文学科卒でもないところが面白い。

(学23期kz)