大村益次郎のはなし

12月4日(土・10時)に開催される第2回長州歴史ウォークの集合場所は、靖国神社内の大村益次郎像前となっている。

明治維新十傑の一人とされる大村益次郎。戦(いくさ)に滅法強く、負け知らず。長州にあっては四境戦争(第二次長州征伐の長州藩での呼称)で連勝を重ね、新政府では彰義隊との戦いに一日で決着をつけ、戊辰戦争では討幕軍の陸海軍総司令官として文句なき戦績を上げた。その後の新政府では藩兵を解散させての統帥権の確立、国民皆兵制、兵器自給に道を拓き、仏陸軍、英海軍を模範とした兵制改革を成し遂げ、日本陸軍の創始者となった。

しかし、大村は若き頃から戦好きであったというわけではなく、軍人を目指したわけでもなかった。

◇蘭学という出世の道

益次郎は医者の家に生まれた。中世封建時代にあっては士農工商の身分制度の下で士族に生まれない限り、出世の道は僧侶か、医者かしかなかった。しかし、益次郎が生きた時代はもう一つの道、蘭学を修めることも出世街道の一つになりつつあった。当時は異国船も日本に姿を現し始め、西洋事情に通じるための蘭学が流行っており、その蘭学を通じた化学、兵学、砲術に関する知識や技術も各藩が欲したからである。このため、大村も若き頃は医学と蘭学を学び、医者か兵学者になることを目指していた。

◇塾通い

齢18にして三田尻(防府)でシーボルトの弟子・梅田幽斎に医学・蘭学を学ん後、19で豊後日田にある全国に知られた広瀬淡窓の咸宜園(かんぎえん)で各藩から集まった秀才たちと共に漢学を学んでいる。22歳の時にはこれまた全国に知られた有名塾である緒方洪庵の適塾で医学を始め、各種洋学を学んだ。

しかし、当時長州藩は第二次長州征伐と攘夷・馬関戦争という内憂外患状態にあり、時代の要請から西洋の軍事に関する技術や制度の導入が求められ、大村の知識や能力は、もっぱら軍事面で発揮されることとなった。

◇図抜けた秀才

各国各藩から秀才が揃い、福沢諭吉も塾生時代は枕を使う暇がなかったというほど、寝る間を惜しみ、しのぎを削り合った緒方洪庵の適塾。大村はそこで塾頭を務めたほどの秀才であった。

この大村、単に蘭語が読め、理屈を強弁する頭でっかちの人物ではなかった。蘭語を分かったうえで書物の中身の本質をいち早く捉え、まるで己が著者であるかのように、誤りなく理解したうえで、周囲に平易な言葉でわかりやすく解説し、大村の講釈は人気があったという。

 ◇間違いのない戦(いくさ)の勝ち方

縁あって、請われる形で出仕した宇和島藩では洋書片手に蒸気船を作り、伊達宗城公から褒美を貰っている。江戸でも蘭学、医学、兵学を教えるが、先に触れたように、長州藩に戻り幕府相手に戦った四境戦争では実戦経験がないにも関わらず、水も漏らさない勝ち方で幕府に連戦連勝し、兵士の間では「大村先生の言うとおりにすれば必ず勝つ」との信仰があったという。また、この時14代将軍家茂(いえもち)亡き後、将軍になりたての慶喜から長州との休戦協定を命じられた勝海舟をして「長州に大村がいるのではとても幕府に勝ち目はない」と言わしめた。

なぜか。勝も蘭語を学んでおり、大村の洋書翻訳の正確さのみならず、まるで見てきたかのように蘭書を解説している大村の能力を知っていたからだ。

大村という人物を知れば知るほど、大村相手のいくさに勝ち目はないことが分かる。間違いのない構想力、戦を確実に勝ちにつなげる企画力、あらゆる事態を想定する想像力、敵と味方の兵力の量と質を熟知した緻密な計算力。

戦いでは、決着が付く時間や、その後の負け組がとる行動も正確に予想している。大村にあっては、戦いは 勝つ べくして勝つ戦いとなったのだろう。

戦いが終わり、平時が訪れた新政府の中で大村は要職に就くが、江戸城で山のような決済文書を前に、判断が驚くほど速かったという。

こうした、本質の早見えする大村に西郷隆盛はどう映ったか。大村は西郷を「武士階級を残そうとしている危険人物」とみた。

武士に依存しない兵制改革を行うことを目指していた大村、いずれ遠からぬ時に西郷と衝突するとみていたのだろう。また、攘夷に距離を置いていた大村は、西郷の征韓論も攘夷の一つとみて大反対したという。

◇性格

社交性に乏しく、飛び切りの無口だったという。日常の挨拶でも愛想がなく、夏に「お暑いですね」と声を掛けられると、「夏は暑いのが当たり前」と、何とも無愛想な返事を返したという。

皆で宴を張る時は、大村の三味線嫌いを知る芸妓さんは座敷に三味線を持っていかなかったという。

◇暗殺未遂

廃刀令、徴兵制や兵学校の設立を目指すが、これは武士の不平を募らせる。武士のシンボルの刀をとり上げ、広く市民から兵を集め、職業軍人を育てることを目指したが、これは武士階級の否定につながる。また大村の蘭学も「洋癖であり、鼻持ちならぬ」とみる向きもあった。

帯刀する武士に不満を抱かせると怖いことになる。大村を襲った刺客8名のうち神代直人、団伸二郎、太田光太郎の3人は長州藩士だったという。

京都で刺客に襲われた大村。刺客の凶刃が大村の額をかすめるが、その時の傷は浅く、左の指先と膝に傷ができただけだったという。暗殺されかけた時の騒乱の中、混乱に紛れて風呂桶に身を隠したが、その風呂桶がいけなかった。風呂桶の底には汚い残り湯があり、そこから細菌が入ったのだ。暗殺未遂事件から2か月で治療の甲斐なく感染症である敗血症で倒れた。さすがの大村も細菌には勝てなかった。

◇ホッとする話

こうした大村について心和むこぼれ話がいくつか残る。つ目、晩酌は決まって銚子2本と豆腐1丁

一つ目、晩酌は決まって銚子2本と豆腐1丁

二つ目、絵心があり、後年日本画を多く収集

三つ目、トコトンヤレ節への曲付け

四つ目、長州ファイブの英国行き資金支援の手助け

最後に、靖国神社境内に桜植樹の申入れ

桜植樹を申入れた相手方は長州の盟友・木戸孝允であった。

(学23期kz)