お預かり
師走半ばといえば赤穂浪士の討ち入り。
この赤穂浪士の事件、元禄の世に大きな波紋を投げかけた。
暴力や殺し合いを禁制にし、文治の方向に舵を切った五代将軍・綱吉が、殿中松野廊下で刃傷沙汰を起こした浅野内匠頭に厳罰を下し、即刻切腹を命じることとなった赤穂事件。
その後吉良邸へ討ち入り、主君の思いを全うした四十七士の行いが義挙なのか、それとも愚挙なのか。
幕府内、当時の知識人に当たる儒学者の間でも見解が分かれたが、庶民の間でも様々な意見があったようだ。
◇四藩に分けてのお預かり
討ち入り直後、四十七士は肥後・細川藩(芝高輪下屋敷・細川綱利公)、岡崎藩(芝三田中屋敷・水野忠之公)、長府藩(麻布・毛利綱元公)、松山藩(三田中屋敷・松平定直公)の四藩大名家で「お預かり」となるが、生類憐みの令を出すほどの将軍綱吉が刃傷沙汰を禁じた中での四十七士の行いに対し、「お預かり」の対応に差異が出た。
◇肥後・細川藩の対応
大石内蔵助を含め十七名の赤穂藩士を受け入れた細川藩の応接がふるっている。
細川家には夜中を過ぎた丑の刻(2時頃)に一行が到着。藩主細川綱利は寝ずに待ちわびており、一行を迎え入れるや「本日の行い、神妙である」と労い、食事をふるまう。
着替えには小袖が二つずつ、食事は二汁五菜。風呂は一人ずつ湯を入れ替えたという。また後日には菓子や夜食、酒まで出された。
この綱利公、水前寺公園として名が知られる熊本の成趣園を造っており、地元の熊本では割と知られる。大石切腹まで49日の間預かり、正月までの半月間に二度の助命嘆願に向かったほか、自らの膳も精進料理で通したという。
この綱利公、なにゆえそれほど手厚く接したのか。
浅野内匠頭が幼少にして藩主となった時、綱利が3年間後見役をしていたという。年のころ40まわりの細川綱利公が元服前後の浅野内匠頭に日常生活の在り方、身の処し方、家臣の処遇等諫言したとの記録が残っている。
岡崎藩・水野忠之公も四十七士に情を持って接したとされるが、幕府を憚ってか、赤穂藩士と顔を合わせたのが討ち入りから1週間後であったという。
他方、長府・毛利藩や松山・松平藩では、前二藩と異なり冷ややかな迎え方だったようだ。
当時の各藩の対応をもじった狂句が残る
細川の水の(水野)流れは清けれど、ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる。
他の二藩がとった対応如何。
思うに責めることのできない迎え方であり、むしろ納得できる穏当な対応と言えるのではないか。というのも、時の将軍が暴力を禁じているからだ。しかも浅野内匠頭の斬り付け、赤穂浪士の吉良の首の打ち取りと、重ねて沙汰を起こしているのだ。
もっとも毛利家(長州藩)や松平家(松山藩)も庶民感情を忖度して細川家にならって、後日義士とみなして待遇を改めたと伝えられている。
いつの時代も治める側にとって世論を無視し一般庶民を敵に回しては安眠できない。
この赤穂事件、調べてみると何とも不思議な事件だ。「事実に基づくフィクション」とされるが、どこまでが事実で、どこからが作り話か迷路に迷い込んでしまう。
しかし、毎年のことながら年末になると不思議と人気が高まる。
何故なのか。私見を別稿で記す。
(学23期kz)