二つの経済学を超えて その1

◇マル経とキン経

学生時代には「マル経」と「キン経」があった。マルクス経済学と近代経済学だ。山大ではむしろ「マル経」の方が優勢だった感がある。

どちらも体系立っていた。体系だっていたがために、お互いがお互いの世界で暮らし、相互の行き来はほとんどなく、いわば隔絶された二つの世界だったように思う。

この二つの中に入って仲介し、両者をどう統合的に理解すればよいのか解説してくれる者も周りにはいなかった。

当時学生の間で流行っていた色分けでは、マル経は「反体制」、近経は体制是認」というレッテルが貼られていた。

大人に成りかけの若い世代は、既存の体制を批判的に捉え、それを乗り超えることで次世代を創り上げていく。

このため、若者が反権力、反体制に向かいがちであり、マル経支持者多かったことも頷ける。

◇背景にある思想

モデルを構成する概念の根底に「個人の自由(利己心)」と「競争」が前提となっている。

欧米人にとっては封建時代にあって、血を流して勝ち取ってきた「個人の自由(利己心)」とホッブスのいう「万人に対する万人の闘争」をもってする「競争」の概念は、欧米人にとってごく自然な前提として、体系が組み立てられているのだ。

すなわち近代経済学では個人の自由意思(利己心)に基づいた行動をとればとるほど、また、競争をすればするほど結果的に調和がもたらされ、均衡が生じる。均衡に至らな場合があるが、これは何らかの要因で競争が阻害されていることによるとみる。

これはこれで経済的な行動を分析する場合、緻密で大変便利な分析道具となる。

またマルクス経済学では、二つの概念を根底に置くものの、取引の瞬間は等価交換で取引が完了するかのように一時的には見えるが、時間の経過とともに「商品経済に内包された矛盾」が大きくなり、不均衡をもたらすとする、いわば時間軸、歴史的な動学に重きを置くようだ。そうした下での利己的な行動と競争は、バランスや調和をもたらさず、矛盾を内包した商品経済は、貧富の差、資本家と労働者の形成、その中での搾取、階級対立を生むとする。

それはそれでダイナミックで鋭い視点であると思う。

しかし、日本のお家芸とされた、競争よりも協調、対立よりも調和はこの二つの経済学の中で、どう位置づけられるのか。

◇変容する経済学、溶ける階級

近代経済学も自由に基づく新古典派の精緻な体系も、「見えざる手」を否定するケインズの登場を招いた。

マルクス経済はどうか。

現在ではギグエコノミー、ユーチューバーなど、中学生でも企業を経営する者が出てきており、持たざる労働者階級が、にわか資本家として二重の役割を演じている。

こうした環境では、階級対立はどのような形をとるのか。

はたまた溶けてしまうのか。

また、経済学が前提とする「ヒト」の行動基準そのものも変わってきている。

必ずしも自己利益の最大化を目指すことを第一目標には置いていない若者が出てきたのだ。

他人に優しく、環境に理解のある20代前半の若者、いわゆるZ世代だ。今後は彼らが社会の中心を担う。

ヒトの行動が変わる中で、経済学の教科書は変わるのか、それとも変わらないのか。

(学23期kz)