二つの経済学を超えて その2

我々日本人の経済行動は欧米流の「個人の自由」、「利己心」、「競争」というよりも、そうした概念を根底に置きつつも、その次元を超えた「和」、「協調」、「利他」の要素を色濃く含んでいるのではないか。

「協調、利他」に「より」焦点を合わせた経済学体系はできないものか。

これまで経済学の教科書のように、欧米を起源とする原理論とは別に、今後は以下の諸要素を前提に置く新たな原理論の再構築を試みることは意義あることではないかと考ええる。

諸要素とは、例えば以下のようなものになろうか。

・環境への配慮

・弱者への配慮(経済的弱者、女性、高齢者)

・社会・経済の持続可能性

・他人に迷惑を掛けない、否、他人も利する利他的行動

こうした視点を盛り込むと、もはや原理論にならないとする見方もあろう。

しかし、本当にそうか。

「キン経」のように、「ヒト」の経済的な行動基準を「自己の利益の最大化」を求める人間としてではなく、他人の便益も考慮し、環境にも配意した行動をとる人間として設定することは可能ではないか。

また、「マル経」のように、「階級対立」とは言わないまでも、社会の分裂や断絶を生まない工夫はできないのか。

観察するに、現実には個人の行動、経営者の行動、株主の行動の変化が既に始まっている。

経営者の行動をみると、例えば労働分配率への考慮、株主利益のみの最大化ではなく広い意味のステイクホールダーを利する行動基準に変わってきており、株主や機関投資家の行動は環境や人権への配慮した意思決定に変わってきている。

経営側もこうした環境や人権に配意した意思決定をしなければ、良い人材を獲得できず、有利な資金調達にも支障を来たし、株価にも影響することになる。

また、何よりも「ヒト」そのものの意思決定の在り方と行動が全世界的に変わり始めている。

「Z世代(1997年~2006年生まれ)」の話だ。

今後は今20台前半の若者たちの「Z世代」が中心の世の中になるのだ。

彼らは心優しく、利他的に動くことに関心を寄せ、また環境問題の理解者でもある。

「キン系」も「マル経」も歴史上、経済主体「ヒト」とその時々に横たわっていた実体経済を分析し、これを理論化・体系化したものであった。

そうであるなら、既に現実になっている「ヒト」の行動や経済主体の取り組みが、理論化・体系化される時は時間の問題かもしれない。

経済理論の核について、その昔はシンプルな概念ものでなければ強固な理論体系はできなかったかもしれないが、最近では、より複雑・高度な環境、調和、持続可能性という諸要素を包含する新たな体系構築を目指そうとすれば、頼りにできそうな相棒も出てきた。AIだ。

複雑なシミュレーションを瞬時に行うことができるのが何とも頼もしい。

さて、いかがなことになるのか。50年後の経済学の教科書はどのようなものか、覗いてみたい。

(学23期kz)