いつの間にか50年の月日が経った。頻繁に日本橋の山口館で、御堀堂の外郎やフグ竹輪や地酒を買う今、懐かしい味覚が当時を思い出させてくれる。
1971年~75年の在学時、松風寮に1年、緑町の山の麓にある下宿に3年いた。近くに朝からオープンの清水温泉があって窓から太陽の光が差し込んでいた。愛おしい時間と豊かな空間がそこにあった。なんと贅沢な暮らしだったのかと思う。20歳の誕生日、夜中にサビエル教会前の広場に出かけた。星空を眺めて未知のこれからの自分を想った。
中高にかけて運動部だった私は “大学では別のことを”、そんな思いを抱いていた。或る日、美味しいお好み焼きを作ってくれる独身の先生がいるから一緒に行かないかと寮の友人に誘われた。教育学部の星原忠雄先生だ。声楽をイタリヤで学ばれた関西人で40代だった。発声練習にも加わった。サビエル教会で響き渡る自分の声は格段に違った。声に魅せられた瞬間である。運動部で鍛えた腹式呼吸が役立った。そして、ワグネルコールへ入部、混声合唱団へ統合し卒業まで指導を受けた。先生のおかげで楽器店、函館のトラピスト教会、上智大学の神父様等とご縁を得た。
一方で、SRC(シニア・レッド・クロス)の創立メンバーにと誘われた。東京海上へ就職した経済学部同期のK君である。大学紛争もあり休講が増えていた時期、2刀流となった。老人ホームや孤児施設への訪問、スポーツ競技会開催等が活動である。社会人や、看護学校との交流もあった。介護施設運営の会社や、看護ステーションの創設支援に今も関わっているのは、当時の経験や残した思いからかも知れない。
別の意味でも山口での生活は人生に光をくれた。歴史や大自然との関わりだ。寮は鴻ノ峰の麓で事務長から松陰の言葉が記された色紙を入寮時に頂いた。自分で考える時間をしっかり持てとのメッセージだ。だから寮はすべて一人部屋だったが、入寮当日の「ストーム」で一旦カギは壊され、いつでも誰にもオープンで行き来自由の個室となった。春は鶯のささ鳴き「ケキョ、ケキョ」で目覚め、昼は平川の広い畑で空高く群れて鳴くヒバリを楽しむ中原中也の世界だ。一の坂川の源氏ボタル、畑路の彼岸花、別世界の秋の長門峡、雪の日に静かに語りかける瑠璃光寺五重塔、鳳翩山、雪舟庭、人と自然との語り合いのあった街だと今でも実感している。七色の煙が五市合併の象徴の北九州市出身の私にとって山口は“桃源郷“だったのかも知れない。
(学23期 H.Ⅿ)