山口十境詩

1372年(応安5年)冬、大内家第24代当主で中国の文化、歴史にも造詣が深かった大内弘世公が招いた明・洪武帝の遣日正使・趙秩(ちょうちつ)。一年半あまり山口・古熊にあった守護所大雄山永興寺に滞在し、つれづれなるまま近辺の名勝地を訪れ、山口十境詩を作っている。

大内文化の最高傑作といわれる国宝の瑠璃光寺・五重塔の建立は70年後の1442年であり、この時には姿かたちはない。

 ◇十境

十境、すなわち趙秩が書き残した十か所の景勝地とは以下のとおりである。大内から宮野にかけた風景が描写されている。

1氷上(ひかみ)の滌暑(じょうしょ)(大内氷上)

2南明(なんめい)の秋興(しゅうきょう)(大内御堀乗福寺)

3象峰(ぞうほう)の積雪(大内川向)

4鰐石(わにし)の生雲(せいうん)(鰐石)

5清水(せいすい)の晩鐘(宮野下恋路清水寺)

6初瀬(はつせ)の清嵐(せいらん)(宮野江良)

7虹橋(こうきょう)の跨水(こすい)(天花)

8猿林(えんりん)の暁月(古熊)

9梅峯(ばいほう)の飛瀑(法泉寺)

10温泉の春色(湯田)

  ◇乗福寺

十境詩は漢詩で作られている。このうち乗福寺を舞台にした漢詩を紹介する。なお、漢詩の注釈については山口高校の教諭をされた荒巻大拙氏の著作「明使趙秩と山口十境詩」に詳しい。

この乗福寺は22代の大内重弘が建立し、大内氏の菩提寺のひとつとなっている。境内には大内氏の祖と伝えられる百済国の琳聖太子の供養塔のほか、上田鳳陽先生の墓もある。

上記2の「南明(なんめい)の秋興(しゅうきょう)(大内御堀乗福寺)

(南明とは南明山乗福寺のこと。秋興とは秋にもの思うこと。)

金玉樓臺擁翠微

南山秋色兩交輝    

西風落葉雲門静

暮雨欲來僧未完帰

金玉の桜台、翠微を擁し

南山の秋風、両(ふた)つながら輝を交ふ

西風に葉を落とし、雲門静かなり

暮雨来らんと欲して、僧未だ帰らず

この詩を読んだとき、乗福寺の住職は明国に渡っており、不在であったという。

◇倫子の方

大内氏の中で最も隆盛を誇り最後の当主となった大内義隆だが、一時は厚い信頼を寄せた家臣、周防守護代・陶晴賢(すえはるかた)の謀反から自刃に追い込まれた。この義隆の側室が倫子の方だ。義隆の重臣であった長門の内藤興盛の娘である。

義隆の没後、倫子の方が哀しみを紛らわせるために出かけたところが上記8の猿林(えんりん)で、現在の上山口駅の南方、鰐石川の東にある古熊神社一帯の山林だ。

ここには父・内藤興盛の墓もあり、義隆との間に生まれた鶴亀丸を連れて訪ねたようだ。

猿林(えんりん)の暁月(古熊)

曙色初分天雨霜

凄凄残月伴琳琅

山人一去無消息

驚起哀猿空断腸

曙色初めて分(あきら)かなり 天の霜をして雨(ふ)らしむると

凄々たる残月、琳琅を伴ふ

山人ひとたび去って消息なし

驚起すれば哀猿(あいえん)空しく、腸(はらわた)を断つ

当時はまだ野猿がいたのだろう。静寂の山林に響く野猿の鋭く甲高いなき声。断腸の哀しみを抱く胸に呼応する。

断腸の哀しみとは何を指すのか。

作者趙秩は大内弘世に招かれた時、日本が南北朝時代の混乱のため博多に抑留されていた。遣日正使としての役目を果たすことができないまま無念の日々を送っていた時のことを思い返していたのかもしれない。

倫子の方も断腸の哀しみの中で、我が子を連れ古熊・猿林を訪れていたようだ。

 

 昨年(2021年)11月、山口・竪小路で行われ、我々の同窓澁谷氏、香原氏が活躍した「まちなみアート」。

イメージキャラクターに選ばれたのが女優・タレントの青山倫子女史であった。

倫子さんには山口との縁が続いてほしい。

(学23期kz)