大内義隆から陶晴賢へ
隆盛を誇った大内氏。その大内氏の勢力は陶晴賢(すえはるかた)を経由して、毛利のものとなる。
時は1500年代半ば、すなわち関ケ原の合戦から遡ること半世紀。防長を中心とした中国・九州北部で繰り広げられた戦国時代を象徴するもうひとつの下克上の縮図がそこにあった。
🔶これぞ戦国の世
歴代大内家の当主で最も隆盛を極めたとされる大内義隆。
この時大内は東、すなわち山陰の尼子氏と覇権争いをしており、両者のはざまにあった毛利元就は尼子から大内へ鞍替えしている。機を見るに敏な武将だ。
局地戦で尼子に勝った大内氏はさらに尼子氏を追い詰めるべく月山富田城攻めに出る。しかし月山富田城は難攻不落の要塞で名を馳せていた名城。戦いは長期化し、ついに大内氏が敗走する。ここで義隆の世継ぎである嫡男晴持が戦死したことが大内氏の運命を大きく変えた。
晴持の死を契機に義隆は軍事から遠ざかり、公家文化に浸り、文治派の相良武任(たけとう)を重用するようになった。
しかし時は戦国の世。「武功のない相良」を重用したことが武闘派の家臣から反発を招いた。その家臣の代表とは、若き頃義隆が「重用した」陶晴賢(すえ・はるかた)であった。
文化を振興するのも良い。教養を高め、深めるのも良い。しかし味方がいつ敵に変わるやもしれない戦国・下克上の時代だ。家臣でさえ、いつ君主に反旗を翻すかもしれない恐ろしい戦国の世。主君が鎧を脱ぎ、戦う姿勢を止めて防備を怠ることは、家臣にとってわが身を危うくすることに直結する。
当時大内義隆は七州の太守であったが、各領国の治世を守護代に任せていた。
大内氏の主な領国は周防、長門、豊前、筑前であり、守護代は周防守護代陶晴賢(すえはるかた)、長門守護代内藤興盛(おきもり)、豊前守護代杉重矩(しげのり)、そして筑前守護代杉興運(おきかず)。
これら守護代は地元の武士や農民と結びついていたのであり、山口に居る大内義隆は領民から遊離していたという。
1552年(天文20年)8月には陶晴賢を筆頭に、長門守護代の内藤、豊前守護代の杉の三者が結託して大内義隆に謀反を企てることに相成る。このため大内義隆は大寧寺で自刃に追い込まれた。
家臣の中で義隆を支持したのは筑前守護代杉興運(おきかず)だけという。
時を移さず義隆の末の子も追われ、討たれる。ここに大内氏が滅亡した。
大内義隆の辞世の句が残る。
討つ人も 討たるる人も 諸共に 如露亦如電光応作如是観
如露亦・・・(にょろやくにょでんおうさにょぜかん)とは禅語。討とうとする者も討たれる我も、共に露や雷の如く一生は短く儚いとの意。
その達観ぶりたるや、お見事。決して武人のものではない。
また文人のものでもない。
それをはるかに通り越した高僧の域に達しているのではないか。
愛息を亡くしたことで厭世の心情を深めた大内義隆。生まれた時代が戦国の世であったのが不運だった。西の京の心優しく、教養深き殿様であった。
(学23期kz)