大内から毛利へ その2

陶晴賢から毛利元就へ

大内義隆公の後を受け、領土を治めることとなったのが義隆の重臣・陶晴賢(すえはるかた)であった。
晴賢は大内義隆の養子であった豊後の大友晴英(大友義鎮の弟)を大内氏の当主の座に据えるが、あくまでも実質的な実権は陶晴賢が握っていた。

陶晴賢が大内義隆を自刃に追い込んだ大寧寺の変から6年後、その陶晴賢も毛利元就からその座を狙われることになる。

🔶碁盤上の勢力図
大内氏の後を受けた際、陶晴賢が幼少の時からの守役・伊香賀房明から碁盤の上で管内勢力図の教えを受ける。
すなわち陶晴賢が天元に位置し、上辺に津和野・吉見氏と出雲・尼子氏、右辺に安芸・毛利氏、左辺に豊後・大友氏などの豪族、下辺に村上水軍など瀬戸内海の勢力ありと。

🔶戦いの契機
1553年(天文23年)津和野三本松城主・吉見正頼が陶晴賢に反旗を翻す。
「上辺」の津和野・吉見氏は以前大内氏と領土争いをしていたこと、また大内義隆の姉が城主・吉見正頼の正室であったことから、義隆を自刃に追い込んだ陶晴賢に恨みを持っていたという。
この吉見が陶との戦いに入った際、毛利元就に対し、吉見軍と陶軍の双方から援軍要請が飛び込む。
ここで、元就はどちらに付くか腹を決めることを迫られる。
以前、元就は出雲・尼子氏から大内氏へ鞍替えした経緯から、陶晴賢とは協力関係にあった。しかし、元就は陶氏が忠義に背き「主君を討った」ことゆえ、陶氏へ援軍を出すことを拒んだ。このことで両者の関係は悪化し、ついには両者の間で戦(いくさ)が始まる。

 🔶厳島の戦い
両者の戦いは天文24年(1555年)に宮島全域が戦場となった「厳島の戦い」として知られる。
この戦いでの両軍の兵の勢力はどうだあったか。
陶軍の勢力は2万とも3万ともいわれていたのに対し、毛利軍は4~5千。圧倒的に陶方が有利であった。
結果は如何に。
はるかに有利な軍勢を有した陶晴賢が、まさかの「自刃」に追い込まれる破目に相成る。

自刃した陶晴賢の辞世の句である。
何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に

主君を自刃に追い込んだ己が、知略に優れた新たな勢力によって自刃に追い込まれる。
陶氏は、こうした日が近く訪れることに気付いていたのだろう。
主君を自刃に追い込んだことで、己の生への執着も深く蝕まれていたのではないか。

何とも短い間のうつろな天下であった。
この運命、淡々と受け入れる他はなかったと悟ったはずだ。
圧倒的に優位な兵力差にあっての、あっけない敗北。
この敗北の要因は陶晴賢の覇気、勝利への執着心の喪失であった。
潔い自刃。
これは主君・大内義隆への謝罪でもあったはずだ。

つづきは次稿で。

(学23期kz)