歴史ノート 木戸孝允①

◆幕末の三傑 

幕末から維新にかけて活躍した長州人には有名人が多い。吉田松陰と言えば松下村塾、東京にも松陰神社がある。高杉晋作と言えば奇兵隊、伊藤博文と言えば初代内閣総理大臣、大村益次郎と言えば医師で兵学者、靖国神社。乃木将軍と言えば203高地、ステッセル、殉死、乃木神社。

では木戸孝允といえば・・・すぐに出てこない。考えてもなかなか出てこない。

それでも、あえて言えば・・・幕末時は「桂小五郎」、「逃げの小五郎」、連れ添いで器量よしの「幾松」。

活躍した場面を切り取りにくい人物だ。

木戸の足取りを見ると、若い時には長州藩内で尊王攘夷派の指導者格となり、藩政の要職に就く。

維新後は五か条のご誓文、版籍奉還、廃藩置県など、封建社会からの脱却・近代社会への制度構築のほとんどすべてに関わり、主導的役割果たす。憲法制定、三権分立の確立を主張した啓蒙派であり、資本主義の定着とその弊害是正にも動いている。

ただ、こうした活躍は調整役として、また抑え役として動いた場面が多い。

多方面での調整役の重鎮として活躍したことは間違いないが、他方その分、個性が表面に出にくく、影が薄くなるのは否めない。

口を付いて出てくるような木戸の残した言葉や歴史上の有名な場面は出てこないのだ。

しかし、木戸孝允は長州人として、西郷隆盛、大久保利通と並び、長州からはただ一人、幕末の三傑に選ばれている。

◆名家生まれ

実父は萩の医者・和田昌景。和田家の先祖は毛利元就の七男天野元政であり、名家である。

後妻との間に生まれた長男であったが、既に嫡子がいたために次男扱いとなり、桂家の養子となる。

この桂家も名家であった。鎌倉時代の初代政所別当(行政長官)大江広元(おおえのひろもと)の子孫である。大江広元とは、平城(へいぜい)天皇の皇子・阿保(あぼ)親王の落胤である大江音人(おおえのおとんど)の子孫で鎌倉幕府の開府に尽力した人物で、テレビドラマ「鎌倉殿の13人」にも出てくる頼朝の側近として仕えた重要人物だ。この大江広元の広大な所領のうち、広元の四男毛利季光(すえみつ)が神奈川県厚木市の毛利庄(もうりのしょう)の地頭となって毛利季光と名乗ったのが「毛利家」の始まりだ。

このため、桂家は殿様の毛利家と先祖を同じくすることになる。木戸孝允が畏まった文書には「大江孝允」と書いたとされるのはそのためだ。遡れば皇族につながる家系だ。

こうしたこともあってか、また木戸は幕末に、藩主・毛利敬親から「木戸」の姓を賜ることとなる。

◆幼少の頃

病弱であったが学問を好んだという。10歳で萩の私塾・岡本権九郎の下で漢学を学んだ後、明倫館で文武の修行に励む。

弘化3年(1846年)、14歳の時に藩主・毛利敬親の試験に応じ、即興で詩を賦し、恩賞に浴したという。また、孟子の解説でも殿から褒賞を受けている。

筆も巧く、幼い時に筆の師が木戸の字を大層褒めたという話も残っており、早熟の器用で利発な少年だったようだ。

(学23期kz)