◆江戸での剣術修行
ペリー来航の1年前にあたる嘉永5年(1852年)、神道無念流で幕末江戸の三大道場の一つ「練兵館」から創設者斎藤弥九郎の息子・新太郎が、萩へ立ち寄る。その時、新太郎が藩に対して若者を江戸へ人を出し、諸藩士と広く交流させることを提案した。当時は長州藩でも藩外遊学を奨励していた時期にあたる。木戸は選考から漏れるが、自費で3年間の江戸遊学を申し出て、願が叶う。
実父に、元が武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せよと言い含められ、剣術に励む傍ら、書物もよく読んだという。
木戸は俊敏性に優れていたようで剣の腕を上げ、仲間をまとめる力にも優れていたためか1年で練兵館の塾頭に駆けのぼり、藩命で長州に戻るまでの5年間、塾頭を務めている。
身長は175センチほど。当時としては高い方で、木戸の上段の構えは周囲を圧倒する気迫があったとも伝えられており、「剣豪」とも呼ばれたようだ。
剣術だけにあらず、柔道にも通じていた。木戸は酒で暴れる横の黒田清隆を腰で投げ飛ばしたことがあったという。黒田清隆と言えば180センチを超える薩摩の大男だったのだが。
◆交流
実父は剣に励むよう願うとともに、資金の支援を惜しまなかった。このため木戸の下には実父の和田家だけではなく、養父・桂家の両方からも結構な仕送りが届いており、カネに困ることはなかったという。
剣に励み、書を読み、豊かな懐事情もあり、同僚や後輩、また他の門人たちと大いに飲み、交流を深めていった。
当時江戸の三大道場には諸藩から有為の若者が参集しており、藩を超えた交流で人脈を作り、木戸自身の人間の幅を大きく広げたようだ。
この時の交流が偉業を成す際の人脈異形成に大きな寄与をしたように思える。
交流の広さは当時の長州藩の人物で他の追随を許さないとされる。
水戸藩士との成破の盟約、薩長同盟など藩を超えた連携で事を成す手法は木戸の「得意技」となった。
酒も好きで、強かったという。大酒で有名な「鯨海酔侯」・土佐藩主の山内容堂公と飲み比べても引けを取らなかったという。
◆風貌
木戸が二十歳ころ、とある茶屋での老婆から「非凡の風采なり。刻苦勉励すれば他日必ず栄達せん」との言を、とても気に入っていたという。
こうした木戸の風貌を、木戸に接した者は書き残している。
政治家やジャーナリストとして多彩な活躍をした福地源一郎(東京日日新聞社長)は、「自ずと首(こうべ)が垂れたのは慶喜公の御前に出た時、もう一度は木戸参議の前に出た時だ」としている。
また、オーストリアの外交官ヒューブナー伯爵は、「強烈に精神の力を感じさせる風貌であり、彼がものを言うとき、その表情は独特な生気を漲らせる」と記している。
さらに、公家の岩倉具視公は大久保利通公に向っては「大久保」と呼び流したが、木戸に対しては「木戸さん」と「さん」付けであったという。
(学23期kz)