人脈が豊富で、政治的センスに優れ、先を見通す識見に優れていたとされる木戸孝允公。
交渉・調整能力が高いためか「長州の外交官」とも呼ばれ、討幕を仕上げ、維新を形作ることに貢献した長州藩の大物だ。
また木戸は、士分でこそないが優れた人材を見つけて登用し、活躍させるのがうまかった。木戸の縁で開いた花が、伊藤博文と大村益次郎の二輪ではなかったか。
◆伊藤博文
伊藤は木戸の義弟(木戸の妹・治子の夫)で長州藩士・来原(くるはら)良蔵の育み(はぐくみ)となった。松陰が「ああ、我の尊信するところの者、ひとり桂(木戸)と来原とのみ」と語った、その来原だ。来原と松陰は昵懇の仲で、来原の紹介で伊藤は松下村塾生となる。来原は伊藤を義兄の木戸に紹介し、木戸は伊藤を雇人とした。
吉田松陰処刑後の遺体を南千住・回向院に埋葬したのが木戸であったが、その脇に居たのが8歳年下の伊藤だった.
また木戸は伊藤を他藩同志の伝達役として使っており、こうしたことも伊藤の顔を広げ、伊藤を世に出す契機となったようだ。
こうしたことから伊藤は木戸から知遇を得たことに感謝し、木戸に対し最大級の賛辞を与えている。
しかし、伊藤は木戸から最後まで「雇い人」として遇されたことに納得がいかず、わだかまりがあったようで、後々「(木戸公の)度量はひろく大きくはなく、随分困ったことも多かった。」とチクリと心情を吐露している。こうしたこともあったためか、伊藤は木戸のライバルの大久保利通と通じるようになってゆくが、これにはこうした溶かし切れないわだかまりがあったことが背景にあるのかもしれない。
◆大村益次郎
吉田松陰は江戸伝馬町処刑場で最期を迎えたが、木戸は松陰を小塚原回向院(えこういん)で葬った帰りに、見事な手さばきで腑分け(人体解剖)をしている人物に遭遇し、驚嘆する。
腑分けの見学者にその人物の名を聞いた時から大村との縁が始まる。この時、桂(木戸)は27歳、村田蔵六(大村益次郎)は36歳であった。
当時木戸は長州藩で藩政を掌握していたが、大村益次郎は宇和島藩に出仕し、100石取りの士分となり、幕府の蕃所調所(ばんしょしらべしょ・洋学の研究・教育機関)教授であった。木戸はその大村を、その職を捨てさせ口説き落として安い食い扶持で長州に招いた。招く方も無茶な招き方をしたが、招かれる方もよくぞ応じたものだ。しかも木戸は大村を軍の総司令官に据える。藩の重役の反対を押さえて。
その期待に応えて、村田は四境戦争(幕府・長州戦争、いわゆる第二次長州征伐)、彰義隊との戦い、戊辰戦争で大きな活躍をする。
大村が死ぬ前、九段に招魂社建立という願いを聞き、またその境内に桜を植える願いを聞き届けたのが木戸孝允であった。
(学23期kz)