もう一つの戦争

◇最強部隊の日系米兵442連隊

先の大戦では米軍に442連隊戦闘団という日系二世で構成された陸軍部隊があった。

当時、敵性市民とされた日系二世。彼らは西海岸の強制収容所から志願し、米国軍人として出征している。

主に欧州を中心とした戦線に派兵され、優れた戦果を挙げたことにより大戦期間中、米陸軍内では最も多くの勲章を得、米国陸軍史上最強の部隊ともいわれている。

当時は米国軍の中でも彼らに対する差別があったという。米国人から日系米兵は「いつ日本側に寝返るかもしれない」との疑念を払拭するためにも、彼らは懸命になって米国のために戦った。

◇日本戦で活躍した部隊:MSI

米陸軍には、日本から地理的に離れた欧州戦線に派兵された部隊とは異なり、日本戦で重要な働きをした日系二世の教育機関があった。それは米国陸軍諜報部(MSI:ミリタリー・インテリジェンス・サービス)語学学校。ここでいう「語学」とは日本語のことだ。戦前に3千名、戦後に3千名で、計6千名学んでいる。

この教育機関は日米開戦を見込んで開戦のひと月前の1941年11月に設置され、その85%が日系二世だったという。

彼らは日本軍の通信傍受、盗聴、捕虜の尋問、捕虜から入手した資料の解析で能力を発揮した。山本五十六連合艦隊司令長官の撃墜も、戦艦武蔵から発せられた暗号電文の解読も彼らの手によるという。

また、彼らは日本兵捕虜の尋問でも活躍する。

「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓があった。しかし、捕虜となった日本人は「日本人の顔をした日系兵」から話しかけられると、何でも喋ってしまったという。

見知らぬ外地で「日本人とおぼしき顔」を見つけると警戒が緩むものだ。話しかけても、怪訝な顔をされ、早口の英語が返ってきた覚えが私にもある。

日本兵捕虜の中には、尋問に頑なに口をつむぐ者もいたが、タバコを喫わせ、演歌を一緒に歌って心を和らげて、情報を得ていたという。

◇日系米兵の戦後

彼らは戦後、日本でもマッカーサーの出迎えや、ミズーリ号での調印式でも活躍する。戦後の占領軍と日本との間に入り、無用な摩擦が生じないように動き、活躍し、日本の戦後復興にも貢献した。

また彼らは、相当な規模の対日支援物資の寄付・支援などを通じて日本の戦後復興の手助けをしている。戦後間もない日本の高度成長に寄与したのは朝鮮戦争特需だけではないようだ。

◇人材を活用した米国

米国陸軍情報部にはこうした日系人だけではなく、ドイツ・オーストリア系隊員による部隊「リッチー・ボーイズ」もいた。彼らはナチスに追われた若者でユダヤ系ドイツ人も多く、対独戦における米陸軍の心理戦要員となり、連合国のノルマンデー上陸作戦では決定的な戦力になったとされる。

日系、独系、ユダヤ系の米国人。こうしたあらゆる人材を活用し、情報戦を展開した米国は極めて有利に戦争を進めていった。

他方、日本はどうであったか。

敵国を研究することなく、「鬼畜米英」というプロパガンダで片づけ、言葉も敵性言語として使用を禁止、それに代わる日本語表現の研究に精力を注ぎ込むにとどまった。

◇アーリントン墓地

太平洋戦争時、敵性市民として弾圧を受けた日系二世に中で、米兵軍に志願し数々の戦果を挙げた442連隊。

戦争終結直後、時の米大統領は米軍の中で最も輝かしい功績を挙げた日系二世の442連隊を閲兵し讃えた。

「諸君が戦ったのは敵兵だけではない。偏見とも闘った。そして諸君は勝ったのだ」。

この連隊兵のうち60余名が「歴史的に特筆すべきマイノリティー(少数精鋭者)」として、ケネディー大統領らと共に国立アーリントン墓地に眠る。

(学23期kz)

フリーダムトーチの442連隊・部隊章