Francisco de Xavier
山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部
【10月 トピックス】
◆山口での布教
サビエルは日本に滞在したのは2年半。その間3たび山口に入っている。
山口を拠点に隆盛を誇っていた大名で、文化に理解のある大内義隆公に謁見するもすぐには許しが出なかったからだ。
義隆からの布教の許可が出たのは1551年(天文20年)4月。三度目の山口訪問の際であった。
義隆公に望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差しなど献上品を持参して謁見、またこの時「眼鏡」も献上しており、これが日本に初めてもたらされた眼鏡とされる。
山口はサビエルに「日本におけるカトリック教の拠点となるにふさわしい町」と映ったようで、山口をとても気に入ったようだ。
実際山口での布教活動は順調に行ったようで、記録には半年間で500人以上の信者を得たとされる。
◆豊後(大分)へ渡る
サビエルはパトロンのポルトガル国王から東洋との貿易促進の命をも受けていた。
大内義隆公のポルトガル貿易への関心について、サビエルは「大内文化は爛熟し繁栄したが進取の気が漲ってはいなかった」としている。
大内氏は対明貿易における独占的な地位をようやく手に入れた直後であり、鉄砲という武器を含むポルトガルとのいわゆる「新規」貿易には興味を示さず、サビエルには大内氏が保守的と映ったようだ。
その点豊後(大分)の大友宗麟公は違っていた。
◆サビエル、大友氏のもとへ
宗麟公はそのとき、肥後や筑後を平定し、本州への進出の野望を持っていた。それには鉄砲が要る。またそのためにはポルトガルとの交易を、さらにそのためには宣教師との交流を、とサビエルに近づく。
サビエルは1551年8月に大友宗麟公から招聘を受け、山口での布教をトーレス神父、フェルナンデス修道士に任せ、豊後に渡る。この時は陶晴賢(すえはるかた)が大内義隆を討つ1週間前に当たり、サビエルは山口で起きた家臣の謀反を知ることがなかった。
その後、サビエルは日本全土での布教のためには日本が手本としている中国での宣教が必要であるとし、豊後を出てアジアの拠点であるインドのゴア経由で中国に渡る。しかし1年後の1552年12月3日に広東州沖合の上川島(じょうせんとう)で病没した。46歳であった。
その年の暮れに、山口では日本初のクリスマスが行われたが、これはサビエルが去った後の残されたトーレス神父とフェルナンデスによってとり行われたもので、明かりの飾りつけや菓子の振る舞いなどはなく、神「デウス」を賛美し、夜を徹して語り明かす質素なミサであったとされる。
◆銘菓サビエル
現在では「ザビエル」の呼び方が一般的となっているが、スペイン語の表記はXavierで、当時スペインの地元の発音は「シャビエル」に近いとされ、山口では「サビエル記念聖堂」と呼ばれており、濁音にはなっていない。小野田にあるミッション系の私立高校の名称も「サビエル高校」となっている。もちろん、山口土産の菓子も「サビエル塔」と濁らない。
一方、大友宗麟がいた大分にもサビエルの名を冠した土産がある。洋菓子の名は「ざびえる」。製造元は「ざびえる本舗」となっている。
私事になるが、地元・熊本でも老舗の和菓子専門店が「ザビエルの誉」という洋菓子を古くから販売している。バターの風味が香る上品な味で値段も他の土産菓子よりワンランク高く、高級菓子として地元でも有名だ。帰省した折には土産として「ザビエルの誉」を奮発し、旅行バックに詰めて帰京したことが何度かあった。
(学23期kz)
ザビエルの誉(熊本)
山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部
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