教育熱心だった長州藩①

藩校と私塾

長州藩は教育熱心であった。

もともと平野部が少なく農業だけでは食べていくことは難しかったようだ。藩としても財政基盤強化のためには米だけではなく塩、紙といった、いわゆる「長州三白」のほか、蝋などの特産品を創り出す必要があった。

また幸いにして、本州の西端に位置したため、北前船の西回り航路の通り道となっており、寄港地として下関では交易で稼ぎ、また倉庫業や金融業でも稼ぐことができた。

しかし、関ケ原以降、外様であったことから飢饉や災害などの天変地異が起こると幕府からの支援も薄く、藩としても存亡の危機に見舞われる。こうしたときに危機を乗り切るには人の知恵、人の団結が必要であり、このため意識的に優れた人材を創り出す「教育」を重視したことは自然の成り行きであったのだろう。

また、藩主毛利家はもともと学者の家系だ。毛利家の祖は大江氏で学問を重んじる伝統を持つ。和泉式部も父は越前の守・大江雅致(まさむね)の娘で、大江の血筋だ。

◆教育制度

享保3年(1718年)に5代藩主毛利吉元が萩に藩校「明倫館」を創設する。全国的には12番目の藩校だが、教育機関としては水戸の弘道館、岡山藩の閑谷黌(しずたにこう)と並び、日本三大学府の一つに数えられている。

長州でも藩校で藩士に子弟の教育を行うが、藩士の子弟が長じて自分の領地で小規模な藩校である「郷校」や私塾で地元の武士の子弟や豪商・豪農の子弟を教え、さらに「郷校」や私塾で学んだ者が

寺子屋で庶民の子弟に生活の知恵や読み書きそろばんを教えることにより、教育のすそ野が広がっていった。

山口県教育委員会の調べによると、幕末維新期に郷校(官学)の数は20校(全国108校)と全国1位、寺子屋は1304校(同15,550校)と全国2位、私塾は106校(同1,140校)と全国4位。

他藩と異なり、寺子屋や私塾の教師は武士が多かったようだ。

(学23期kz)

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