山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部
【2024年 2月トピックス】
◆「二心殿」
解釈が分かれる人物である。
一度言い出したら意見を曲げなかったため、松平春嶽から「強情公」というあだ名をつけられた。
また、状況が変わると意見や態度を急に変えるため「二心殿」と呼ばれ、あるいは「変節将軍」と呼ばれもした。
徳川家の末裔で徳川家の人物を見てきた人物は、慶喜公を家康と並ぶほど「霊感が強い」としている。すなわち感が鋭い人物だったとしている。
家茂公が第二次長州征伐の途上、大阪城で急死した際、将軍職を打診されたが、受けなかった。これは、インドのバハードゥル・シャー2世のことが頭にあったからではないかともいわれている。
シャー2世は英国のインド進出で退位させられ、一度はインドの反乱(セポイの乱)軍から皇帝として擁立され、インドの復権宣言をするが、翌年英国側に逮捕され、隣国ビルマに流刑となった。結局その地で死亡し、ムガール帝国が滅ぶことになった出来事だ。
シャーが逝去したのは慶喜が20過ぎの頃にあたる。この顛末が慶喜もわが身のことのように耳に入っていたのだろう。
◆伊藤博文秘録
伊藤博文の秘録に残っている。
ある時有栖川邸で徳川慶喜と伊藤博文が相客に召されたことがあったという。
晩餐も済み、主だった客人も退出した後、二人が別室でくつろいでいる時、伊藤公がかねてからの疑問を突然切り出したという。
伊藤公が大政奉還という大事を断行されたのはいかにも突然であり、あまり思い切った決断であったが、いったい誰が進言したのかと直截に問われた。
すると、言下に「私の信ずるところに従って、誰の知恵も借りずに決心しました。私は亡き父烈公から常に皇室の尊厳、国家の大本について教訓されており、父の訓戒を実行するのはこの時のことだと気が付いたのです。他人の知恵でもなければ、私の力でもなく、すべては父の教訓を実行したに過ぎなかったのであります」と答え、伊藤公は今更のように慶喜公の高い見識に驚いたという。
◆一貫した尊王
攘夷か開国かで「変節の将軍」と呼ばれた慶喜。しかし、慶喜自身の中では矛盾はない。
慶喜は後に開国へ態度を変えるが、これは異人嫌いだった孝明天皇が崩御したことによる。
尊王という軸でみると、慶喜の姿勢はむしろ一貫していた。
尊王思想は幼い頃から父斉昭によって叩き込まれていたのであり、孝明天皇在任中、天皇の意思を汲むことなく、また父の教えにも背く「開国」に舵を切ることは許されるはずはなかった。
こうした重しが外れた時、はじめて諸般の事情を考慮した慶喜自身の判断が可能となったのだ。
(学23期kz)
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