山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部
【2023年3月トピックス】
◆歴史の編纂
もともと、明治維新政府ができて間もなく、明治天皇は修史を編纂し、「永遠に朽ちることのない典籍」の作成に意欲を示している。
このため明治政府は明治21年(1888年)に毛利家、島津家、山内家、水戸徳川家の四家に藩の事跡を記述し史料を揃えて提出すべく特命を下している。期限は3年だ。
しかしどの藩も編纂することはできなかった。
なぜか。
実証主義というという歴史観がなかったからとされる。
牽強付会、我田引水、わが身のみを美化する史料では困るのだ。
同時代人の了解を得、後世の参考となる藩の事跡を記すには、相当の高みに立って、透明な見地から、文献や史料を読み重ね、歴史を綴る必要がある。
結局政府に提出するにふさわしいものができなかった。このため明治30年になって各家は政府に編纂期限の延期依頼を出している。
末松謙澄は最初から長州・毛利家の歴史編纂を任されていたのではなかった。当初、その任に当たっていた者が、新政府に提出するに足る歴史書を編纂することができなかったことから、事実上の毛利家後見人となっていた井上馨のところに歴史編纂の催促が行くが、井上はこれに困り、伊藤博文に相談したところ、末松謙澄を紹介された。
こうした経緯で末松は明治30年(1897年)に毛利家から長州藩の歴史編輯所(へんしゅうじょ)総裁を任命される。
◆ヘーゲルの歴史観
末松はヘーゲルの歴史観にヒントを受けた。
ヘーゲルは中国の歴史を、王朝が繰り返されても周囲は東夷、西戎、北狄、南蛮と位置付け、どこまで行っても発展性がなく停滞の歴史と映り、そこに疑問を呈する。
しかし、ギリシャ、ローマ、ゲルマンは異なる。発展の歴史がある。ルネサンス、フランス革命、産業革命という段階的発展を通して近代化が実現されているとした。
末松にとって、身近にあった明治維新。日本の歴史的発展を見るうえで明治維新とは何だったのか。
長州藩の歴史編纂に身を投じることが、「歴史の発展」を実証的に、客観的に調べる絶好の機会と捉えたのではないか。
◆編纂は難航
しかし、客観的な記述を期す編纂過程で末松は長州側から様々な嫌がらせを受ける。長州側としては、これまでの毛利家や長州藩、長州英傑の活躍ぶりなど、これまで慣れ親しんだ「親・長州史観」に基づく歴史の語られ方とは違っているからだ。
また末松の生まれは、長州とは対立する幕府側の小倉藩。馬関戦争では外国艦隊を長州側と小倉側から挟撃すべく小倉藩に話を持ち込むが幕府側に立つ小倉側に拒否されたこともあり、長州は良く思っていない。
また、馬関戦争では小倉藩は敗北を喫し、小倉城が落城。このため、小倉藩側からも末松に対し、馬関戦争当時敵方の長州藩の歴史編纂を行うことに批判も出ている。
こうしたことも「防長回天史」の編纂を難航させた。
・・・続く
(学23期kz)
★SNSに登録していただき、フォローをお願い致します。
また各記事の末尾にコメント欄もあります。