◆攘夷を巡る朝廷、幕府、そして長州の思惑
長州が煮詰まるまでの一年をみてみよう。
外国との関係を見るうえでの前提として、最高権威者・孝明天皇が
「攘夷」の意向を強く持っていたことは確かであろう。
この天皇の「攘夷の意思」を尊重し、前提としながら、開国を迫る列強国とどう向き合うかで、幕府と長州藩の間で見解が分かれる。幕府は天皇の意思を理解しながらも、ペリー来航以来、事を荒げず外国と穏便に付き合い、徐々に事実上の開国に向かう現実的な策をとろうとする。ただし、朝廷の勅許を得るという手続きは経ていない。
これに対し、急進・過激な長州藩は、勅許を得ずに列強国と和親・通商条約を通じ開国を進める幕府の姿勢を天皇の意に背くものと非難し、天皇を担ぎ上げる形で、攘夷実行に向かおうとする。
幕府は朝廷や長州藩の攘夷の意に手こずり、5月10日を攘夷期限とする布告を出す形に追い込まれる。
これに勢いを得て、長州はすぐさま下関を通る外国船を攻撃した。
しかし、幕府としては列強国の外国船相手に攘夷の実行は所詮無謀であり、徹底的な攘夷は事実上できないという読みがあった。
他方、長州としては、幕府が反対しても長州藩単独で天皇を担ぎ出し、長州藩が単独で外国艦隊に砲撃を加えることを考えていた。
すなわち長州としては孝明天皇の意を得ての攘夷であると認識しており、この時は実際朝廷も外国船砲撃に対する長州の攘夷を賞したのだ。
◆長州の誤算
長州としては天皇を担ぎ、攘夷を決行することが260年にわたり苦汁を飲まされてきた徳川幕府を倒すことに直結する絶好の機会であるとの読みがあったのではないか。
しかし、幕府としては攘夷と開国要求という難問を前に、何とか事を穏便に運ぶことに腐心する。
実際のところ、孝明天皇の真意はどこにあったのか。
長州藩の読みでは、攘夷の意を示した孝明天皇は、勅許なく開国に向かう幕府を許すはずはなく、長州が向かう攘夷の実行に理解を示すはずだとみた。
しかしこうした読みはどうやら誤っていたようだ。
どこでどう読み違えたのか。
孝明天皇は、攘夷は幕府に任せ、天皇自ら陣頭指揮を執って徹底的に外国艦隊と戦うことを望んではいないようだということが徐々に明らかになってきた。
また、外国艦船による報復攻撃、さらにはフランス軍の馬関上陸を見て、徹底攘夷という当初の天皇の考えが変わったことも大いに考えられる。
ここに長州側の誤算、読み違いがあったのかもしれない。
しかし、それでも長州は「天皇の意を汲んだ」はずの攘夷を続けようとするが、こうした長州の姿勢、真の狙いは「天皇を担いだ倒幕」であり、幕府、そして公武合体派の薩摩・会津にとって、「天皇を利用した」無謀な攘夷と映る。
こうした危険な長州を京都から排除すべく、公武合体派や急進攘夷を危険視する公家の御注進により、長州を朝廷のある京都から排除せよとの命が下る。
文久3年(1863年)8月18日の政変だ。長州に与する公家の「七卿落ち」もこの時だ。
長州は機を伺い、京での再起を期すが翌年、池田屋事件で攘夷藩士が新選組に殺害されたことを契機とした禁門の変で御所に向かって発砲、とうとう朝敵となった。
その直後の7月23日に長州追討令が出され、同じ7月から12月にかけて第一次長州征伐が行われる。
追討令から十日ほど経った元治元年(1864年)8月5日から7日にかけて四か国連合艦隊の報復砲撃を受けることになる。
内と外からの内憂外患だ。
過激で無謀な長州。
どうしてそうなるのか。
関ケ原での負け組からの挽回意識、捲土重来を期す意識がよほど強かったのだろう。
・・・続く
(学23期kz)
山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部
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