山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部
【2023年5月トピックス】
◆先例としての薩英戦争賠償問題
馬関戦争が起きた同じ文久3年(1863年)に英国は前年の生麦事件にかかる犯人の処刑と賠償金の支払いを薩摩藩へ迫ったが、薩摩藩がこれを拒否。このために薩英戦争が起きている。
薩摩は、日英修好通商条約は幕府が勝手に始めたものでることを理由に支払いを拒否。
このため薩英戦争での賠償金は幕府に対して10万ポンド(生麦事件・1862年9月)、1万ポンド(東禅寺事件)、計11万ポンド(44万ドル)、薩摩へは2万5千ポンド(10万ドル)合計54万ドルであった。
幕府は翌年(1864年)5月9日(長州による攘夷決行の前日)11万ポンドを支払っている。
薩摩藩としては、賠償金(10万ドル=6万300両)を幕府に用立ててもらい支払ったが、この分、幕府への返済は行っていない。
◆馬関戦争の賠償金は300万ドル
馬関戦争での賠償金はどうであったか。四国連合は報復攻撃を終えた後、講和の席で幕府と長州に対し、賠償金300万ドルを要求した。これは薩英戦争での賠償額54万ドルの約5倍に当たり、幕府予算の3分の1に相当する。
長州は、薩摩の対応と同様、幕府の攘夷実行の命令に従ったことによるものであるとして支払いを拒否している。
また、支払能力もなかった。長州側の言い分は「防長二州でコメの収入は36万石、このうち20万石は家臣の扶持、残りは大砲、武器・弾薬に使い、支払い能力なし」とした。
◆英国の開港圧力と幕府の判断
交渉の当事者になったのは英国公使オールコック。
オールコックが目指すは300万ドルの弁済ではなく、本当の狙いは開港・開市にあった。このための返済不能と思われる額の賠償金を持ち出したのだ。
しかし幕府は支払うことを決める。
なぜか。
開港したくなかったのだ。
孝明天皇への配慮もさることながら、開港要求に応じれば攘夷熱が起こり、雄藩への支持派が増え、さらに攘夷熱が高まることを懸念した。
また、幕府が長州と談判することなく支払いを決めたのは、薩英戦争後の英国と薩摩とが親善関係に発展したように、英国と長州が交渉する過程で両者に幕府抜きでの良好な関係ができることは、幕府にとって好ましくないと考えていた節もある。
このほか、経済的な理由も賠償金支払いを決めた背景にあったようだ。
開港したことによってモノが海外に流れ、物資の供給不足から、米、塩、油などの生活必需品の値が上がり、場所によっては以前の数倍に上がったことが記録に残る。庶民の首を絞めたのだ。
こうしたことで庶民が暴徒化する治安の乱れを止める意図もあったようだ。
◆賠償金返済
幕府は300万ドルを3か月ごとに、50万ドルづつ6回に分けて払うとした。2回の支払を終え、3回目を1866年3月に終えたが4回目の支払のめどが立たず、2年間の支払延期の要請している。
しかしその半年後、幕府が倒れた(10月15日大政奉還)。
賠償金の返済は明治新政府に持ち越され、支払い終えたのは明治7年(1874年)であった。
4か国はそれぞれ80万ドル弱を手に入れ、またなし崩し的に開港・開市となった。
◆米国に渡った賠償金の返還
下関事件によって米国は長州側の無通告砲撃第一砲を商船ペングローブ号に受けたが、その砲撃に対し、後日艦船が出動し、長州の軍艦2隻を撃沈、1隻を大破させ報復している。この時ペングローブ号が被った損害として米国単独で1万ドルを幕府に請求し、翌年7月に幕府から支払いを受け、米国との間で賠償問題は決着が付いている。
他方、英国が講和を取り仕切った四国連合への賠償金300万ドル。このうち、米国では賠償金80万ドル弱が渡った。
しかし、この賠償金の扱いを巡り、米国では15年かけて議会で検討され、すでに賠償問題は終わっているため、「本質的に相当な理由のない賠償金」であるとし、1884年に日本に全額が返還されている。
この全額返還された賠償金は横浜港の大規模な築港工事に使われ、大規模な防波堤、大型船が着岸出来るようになったという。
賠償金の扱いを巡る米国の美談であり、当時の米国の清らかさと見識の高さを示した判断であったとされている。
(学23期kz)
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