品川弥二郎のはなし その1

山口大学経済学部同窓会 鳳陽会東京支部

【2024年 6月トピックス】

昨年の第2回長州歴史ウォークは靖国神社から出発した。靖国通りの反対側にある九段坂公園内に品川弥二郎の像が立つ。

◆松陰が愛した塾生

幕末から明治初頭にかけて、多くの志士が活躍し、その人となりについて多くの書籍が出ているが、品川弥二郎を主人公とした読み物はさほど多くない。長州藩にあって有名どころの木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文よりも年少であったこともあり、歴史小説では彼らの脇役として描かれることが多く、影が薄い。

しかし、長州藩の偉人の多くが吉田松陰に学び、松陰を慕ったが、その松陰がたいそう可愛がったのが15歳で松下村塾に入ってきた品川弥二郎だ。

松陰から入門理由を尋ねられた弥二郎は「人を助ける人間になりたい」と答えたという。

 ◆松陰の弥二郎評

松陰は入門時の弥二郎の印象を「その容色温直敦朴(じゅんぼく)なり、余一見してこれを異とす」としている。これまでの塾生とは異なり、見目麗しい純真な心を持つ青年ながら、弥二郎に特別な「気」を感じ取っているようだ。

松陰が弥二郎と同じ時を過ごしたのは一年ほどしかなく、「事に臨みて驚かず、年少中稀覯(きこう‐非情に稀の意)の男子なり。弥二(ママ)は人物をもって勝る」と評している。正直で明るい性格だったようで、温厚正直でうわべを飾らず、心が広く奥深いと見ていたようで、松陰はそこをたいそう愛でたようだ。

塾生がやきもちを焼くほど弥二郎は松陰から可愛がられており、実際塾生の間で弥二郎は松陰の「秘蔵っ子」を呼ばれている。

他方、弥二郎の学問の出来はどうだったのか。弥二郎は入塾するまでに別の私塾で学び、四書の素読を終えていたが、松陰は弥二郎の漢籍に対する読解力が一人前に達してはいないと評価していた。

松陰が獄中の間、弥二郎の3歳年上の久坂玄瑞に弥二郎の指導役を頼んでいる。入塾1年後、弥二郎の学問習得は特に進んだわけではなかったが、松陰は「旺盛な気力は他の追随を許さないものがあり、私はそれを愛してやまなかった」と述べており、学問のできよりも気力を褒めた。他の塾生にとっては妬ましいほどの気に入り方ではないか。

 ◆「松陰」になっていく弥二郎

松陰が刑死したのは弥二郎が17歳の時だ。生前獄中の松陰に一番多く会いに行ったのが弥二郎だったという。弥二郎は松陰が門弟のために著した獄中遺書「留魂録」を繰り返し読み、その中に記された、「それぞれが己の人生の春夏秋冬を悟り、それぞれの果実を実らせよ」とする松陰の命題と格闘し、悶え、松陰の遺志に真剣に応えようとする。

松陰の面影を追い、叶わぬものの半ば松陰になり切ろうと藻掻いた弥二郎。弥二郎は風貌を気にすることはなかったというが、これは松陰を真似てのことだったという。

 これは行動面にもあらわれる。志士としての側面だ。安政の大獄時、水戸藩士が大老・井伊直弼に手を下すなら、(京都で安政の大獄の弾圧の指揮をとっていた)老中・間部詮勝(まなべあきかつ)を斬るとの激情を抱き、その実行を公言した吉田松陰。純真で一本気、日本を変えるために敢えて犯す「狂挙」を門弟にも教えた吉田松陰。弥二郎も高杉らと尊王攘夷活動を共にしており、英公使館焼き討ち事件などにも参加したが、馬関戦争では高杉が行った外国艦隊との和睦には強い反対を唱え、戊辰戦争での榎本武揚に対しては厳しい処分をとるべきと硬派の主張をした弥二郎。ここには松陰の影が見える。

禁門の変では、敗戦の色が深まる中で、弥二郎は共に参戦した久坂に介錯を願うが一喝され、代わりに久坂の自刃を目の当たりにするという悲惨な体験をした。

その後、木戸孝允の下で薩長同盟の成立に尽力し、戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀・整式隊参謀を務めるまでになる。このように危機的な局面をくぐりつつ、松陰の遺志を受け継ぐことを手探りで模索しながら、弥二郎は成長していく。

遺る弥二郎の写真

写真に遺るカイゼル髭をたくわえた品川弥二郎。入塾時は穏やかな表情の持ち主だったはずだが、松陰になり切ろうとするあまり、松陰の「気」を受け継いだようでもあり、ある種の凄味を窺わせる風貌を備えている。

尊攘堂

新政府ができると弥二郎は要職に就く。農商務省に在籍していた時、視察で訪れた茨城県で水戸藩士が持っていた松陰の手紙を偶然手にする。この手紙は松陰が処刑される7日前に萩の長州藩士・入江杉蔵に宛てたもので、松陰が構想していた学問所創設にかかわるものであったという。この学び舎は「天子・親王・公卿から武家・一般人」まで学ぶことができるもので、松陰はこの施設を京都に建てたいとの思いを持っていたのだ。

弥二郎は時世を考慮して、学び舎ではなく、明治維新を記念する資料館とすべく私財を注ぎ込んで遺品を収集し、京都に尊攘堂を開設、松陰の遺志のひとつを結実させた。

もうひとつ、松陰の命題に対する弥二郎が見つけた答え、その人生を掛けた大仕事だった。

・・・・・続く

(学23期kz)


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