品川弥二郎のはなし その2

山口大学経済学部同窓会 

鳳陽会東京支部

【2024年 6月トピックス】

◆錦の御旗

鳥羽伏見の戦いで始まる戊辰戦争。品川弥二郎といえばこの時、征討軍の進む沿道に伝わったのが“軍歌第1号”とされるトコトンヤレ節で、詞の作者として有名だ。これと共に、錦の御旗作製に一役買ったことでも知られる。

討幕の時、岩倉具視、大久保利通から図柄を示され、錦の御旗を作れとの命を受ける。大久保が西陣で織らせた大和錦2反、紅白緞子10巻を弥二郎に渡し、これを受けて弥二郎は長州に戻り、萩の有職師・岡吉春に旗の作製を依頼。岡は山口市一の坂川の川べりにあった諸隊会議所で人の出入りを厳重に禁じ、30余日をかけて、日月章の錦旗2旈、菊花章の紅白旗10旈を作り上げたという。

 ◆戦い終えた脱退兵の一言

戊辰戦争後に長州藩で起きた騒動で、一つの逸話が残る。

明治2年11月に長州藩での内戦、脱退兵騒動が起こる。戊辰戦争での戦士は約5千人。このうち圧倒的多数が農民であった。戦いが終わると「戦士」の扱いに困る。

このうち1500名が親兵に選ばれ次の職を得たが、残りの者はあぶれる形になる。これが脱退兵だ。この中には誇り高き奇兵隊に属していた者もいた。遺族や負傷兵への手当が要るが、藩の財政は底をついており、金銭面での対応ができなかったことから、長州藩内で脱退兵の反乱が起きた。

敵も味方も長州人。

お互い夥しい犠牲者が出た悲しい、壮絶な戦いだったという。反乱兵討伐軍は、最初は討伐自体をためらっていたが自陣の被害も出始めたことから態度を変えた。

態度を変えた後は、銃口がただれるまで脱退兵めがけて弾を撃ち込んだという。

この時、弥二郎は脱退兵の説得に向かった。無謀だとして引き止める側近を押さえての説得だ。脱退兵の中には、整武隊参謀であった弥二郎の部下もいたためだ。

弥二郎が説得に行った際、整武隊の部下だった初老の男が、弥二郎に身の危険が及ぶことを案じ、怪我なく弥二郎を逃がすために裏道に導いたが、その際掛けた言葉が弥二郎の脳裏から離れなかったという。

「おれらはここで死ぬるが、これからの若い者を、こねえな目にあわせない世の中を、生き残ったあんたがつくっておくれよ」

 ◆ドイツ留学で見つけた目標

弥二郎は明治新政府で要職に就くことを打診されるが、松陰が果たせなかった海外渡航の夢を継ぐべく海外留学を願い出る。留学の願いが叶えられるのが明治3年(1870年)、弥二郎が28歳の時。

渡航先のドイツで、明倫館で学んだ留学生、後に外交官となる青木周蔵からライファイゼンが唱えた農民相互扶助の金融制度である信用組合(ゲノッセンシャフト・バンク)を紹介される。欧州の工業化の過程で置き去りにされた農村にあって、凶作に見舞われたドイツの地で高利貸しに苦しめられた農民が、自衛策として創った金融制度だ。その理念は「万人は一人のために、一人は万民のために」。

戊辰戦争の後で、困窮する農民の姿が脳裏から離れなかった弥二郎はこの制度を日本に移植し、根付かせるという着想を得、これを生涯の使命と捉えた。松陰からの宿題・・・「生涯の果実を実らせるべし」。

ここに弥二郎は「生涯の果実を実らせることができる」と確信したようで、松陰に学んだ子弟としての途を見つけた。

 ◆病床での朗報

弥二郎が最初に信用組合法案を出したのが明治24年。拡充された協同組合法が衆議院を通ったのが明治33年(1900年)2月15日、貴族院を通り可決・成立したのが1週間後の2月22日、死の4日前であった。

そこで弥二郎は57年の生涯を閉じる。

死ぬ間際、病床にあり危篤状態で法案通過の報を受けた弥二郎は微かに眉を動かしたという。

品川弥二郎の瞑った目に映し出されていたものは、喜ぶ農民の姿であり、頭を垂れて礼を言う老兵であり、そしてようやく生涯をかけて実らせた果実を伝えたい生涯の師、数えで30歳のままの吉田松陰だったのだろう。

また、意識朦朧とした弥二郎の瞼の裏に映った松陰の脇には、入塾当時に弥二郎が淡い恋心を抱いた松陰の妹・文(ふみ)もいたはずだ。

(学23期kz)

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