廃仏毀釈と古美術品 その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年6月トピックス】

◆燃え広がった廃仏毀釈運動

明治新政府によって出された1868年(明治元年)の神仏分離令はあくまでも神仏習合の禁止、神社の仏教色の排除であった。

しかし、これが古美術品の海外に流出につながる寺社の取り壊しや仏像・仏具の廃棄という形で全国に広がっていったのは一体なぜなのか。

この背景には、平田篤胤の復古神道の社会への浸透といった要因が背景としてはあったが、それだけでは「暴力的な廃仏毀釈運動」という熱の謎が解けない。

その熱とは何か。

怒りだ。

先ず神道の神職の怒り。

江戸時代を通じて幕府の厚い庇護があった仏教界に身を預ける僧侶に比べ身分的にも経済的にも格下であった神職。彼らの不満が積み上がっていたことによる

次に民衆の怒りだ。

特権階級として優遇される仏教の僧侶。彼らに油断があり、幕府からの手厚い庇護に安住し、修行を怠り奢侈に走る「堕落僧侶」が増えたとされる。こうしたことに庶民は常々反感を持っており、感情を暴発させる契機を待っていたのだ。

このため廃仏毀釈運動は全国的に燃え広がっていき、寺の数は約半分になったともいわれる。

◆寺が壊滅

廃仏毀釈運動がピークを迎えるのが1870年(明治3年)とされる。

廃仏毀釈運動は全国的な広がりを見せたが、地域によって自ずと違いは出る。新政府の屋台骨となった薩・長の間でもそうであった。

すなわち長州は仏教派であり、山口において寺の取り壊しはさほどでもなかったようだが、神道派の薩摩では徹底的に寺が破壊されている。薩摩藩では1066の寺院が壊滅し何とゼロになったというではないか。もちろんこの中には歴代藩主の菩提寺も含まれているが、そこも含め廃寺になっている。

また土佐でも615あった寺のうち7割に当たる439が廃寺になったようだ。

◆残った興福寺の五重塔

古都奈良の興福寺・五重の塔に逸話が残る。釈迦の舎利を納める墓標である五重塔。当時の仏教寺院おける権威の象徴とされていたが、廃仏毀釈により、競売にかけられ25円で落札されたという。

25円とはいかほどか。この当時(明治8年ごろ)巡査の初任給が4円だったという。現在の巡査の初任給を調べてみると、高卒で22万円、大卒で26万円であるから、現在では130~150万円相当となる。

当時の落札者は五重塔の建物自体に関心はなく、塔に収められた金物・金具が欲しかったようで、このため手っ取り早く五重塔を焼却して金具を取り出そうとしたが、類焼を懼れた近隣住民から反対運動起きたため焼却を断念、このため五重の塔は今でもその姿を留めることになったという。

2001年にタリバンがバーミヤンの遺跡を破壊したことが、大きなニュースになったが、同じことが150年前の日本で行われていたのだ。

・・・つづく

(学23期kz)

2022/11/5  筆者撮影

鳳陽会東京支部

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