山口の在来線(その2・鉄道の父 井上勝)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年7月トピックス】

鉄道の父・井上勝

◆山口線でも目立つ無人駅化

前号では山口県内で鉄道の無人化が進行している話をした。

私が入学した時、「小郡」から山口線で湯田温泉駅で降りる際、ひとつ手前の矢原駅はすでに無人駅になっており、当時驚いた記憶がある。

◆山口線開通100周年

今年4月で小郡—益田間の鉄道駅が開通して100周年になるという。おめでたい話だが、今回、山口線を調べてみると、今では新山口駅(旧小郡)から湯田温泉駅まで、周防下郷、上郷、仁保津、大歳、矢原、これらの駅は全て無人駅になっていた。

モータリゼーションの進展に伴うものでもあるので自然な流れなのかもしれないが、この先大丈夫かと心配になってくる。

さらに山口駅から先、すなわち益田までの上山口、宮野、仁保・・・長門峡も無人駅だ。さすがに津和野駅JR直営旅客駅となっているが、その先は益田まで無人駅が続く。

◆鉄道の父、萩藩士・井上勝(野村弥吉)

「新橋—横浜」間の鉄道を走らせたのが山口の井上勝だ。

井上勝は1843年、萩藩士・井上勝行の三男として生まれ、5歳で野村作兵衛の養嗣子となり野村弥吉と改名し、明倫館で学んでいる。

明治元年(1868年)、25歳で実家の井上籍に復籍した。

長州ファイブの一人として英国に渡りロンドン大で鉄道と鉱山について学ぶ。渡航時は20歳。野村弥吉と名乗っていた時代だ。長州ファイブの中では最も若い。馴染みのある長州ファイブの5名の写真の真ん中に写っている。

井上勝は英国から日本に帰り、明治2年に上京、工部省に仕えた。このとき鉄道建設の資金手当てに通訳として関わったことから彼の鉄道人生が始まる。

1872年(明治5年)には工事責任者として「新橋‐横浜」間の鉄道を完成させ、鉄道局長を経て、鉄道庁長官にまで上り詰めた。

井上の銅像が残るが、その銅像は東京駅の丸の内にある。丈の高い像で、東京駅の駅舎を見守るように建っている。

◆鉄道敷設の波は山口にも

明治30年代には山口県にも鉄道が敷設される。

小郡—山口間で鉄道が走るようになるのは1913年(大正2年)であるが、資金がないために便法で簡易鉄道敷設を急ぎ、1908年(明治41年)に狭軌で軽量の軽便鉄道が小郡—湯田間が開通、2年後には「亀山駅」、「山口駅」と延びていった。

軽便鉄道は軍用道路と重なっていたため、鉄道敷設の許可を得る必要があったが、当時の陸軍大臣は寺内正毅。すぐに使用許可が出たという。それもそれ。寺内大臣は山口出身だ。吉敷郡平川村の出身というから山大の平川キャンパスがあるところで生まれ育ったことになる。

軽便鉄道は現在の山口線のやや西側を走っており、今でも山口市内に軽便鉄道の跡が残る。

当時の軽便鉄道は停車駅、時刻表は定められていたが、のどかな時代で、手を上げれば電車が止まってくれたという。また、この軽便電車では、我らが先輩、山口高商の学生が飛び乗ったり飛び降りたりする光景も見られたようだ。

(学23期kz)

中央が「鉄道の父」井上勝(野村弥吉)。当時20歳

One thought on “山口の在来線(その2・鉄道の父 井上勝)

  1. 投稿拝見、井上勝はよく頑張りましたね。
    寺内はどうか?余り評判も良くなく陸軍長州閥で上り詰めとの意見もある。(私です)
    ただ、ネット検索した時宇多田ヒカルの先祖と
    分かって少し親近感が出ました。

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