山大・花の経済学部 その1

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 10月トピックス】

山口大で「花の経済学部」と言われるには、まず、東京(一橋)、神戸に次いで、全国で3番目に設立された経済学部の前身・官立高等商業専門学校という誇らしい生い立ちが要る。

しかしそれだけでは十分ではない。

傑出した人物を数多く輩出したという実績が積み上がっていないと「花の経済学部」という評判は立たないし、続かない。

逸材、ここにあり。

◆図抜けた経済学者・柴田敬先生

山口高商卒から京大に進学し、京大教授として世界的に活躍した経済学者がいる。

柴田敬先生。

上久保敏著「日本の経済学を築いた50人」2003年11月(日本評論社)の中に取り上げられており、マルクス経済学と一般均衡論の融合を図った経済学者として取り上げられている。

オスカー・ランゲが使い始めた「近代経済学」というフレーズは柴田先生の著作「マルクスの資本主義分析とローザンヌ学派の一般均衡論」からヒントを得たという。これからすると、柴田先生は日本、いや、世界における「近代経済学」の草分け的な存在といえる。

茶目っ気のある著名な経済学者だった都留重人氏は「『経済学学者』は多いが経済学者は少ない」とし、その数少ない経済学者の一人に柴田敬先生を挙げている。

柴田先生はマルクスの「利潤率の傾向的低下の法則」に対して異を唱えたとされる。

社会科学の一分野である経済学は、自然科学とは異なり、悲しいかな、時間(時代性)と空間(地域性)の制限を受けざるを得ない。

マルクスの生きた時代、住んだ社会、住んだ地域、そうした前提ではある命題が妥当しても、時代が変わり、地域が変わり、社会が変わればその命題が妥当するとは限らない。

マルクスはそれも承知の上で、結局は大きな法則の中に飲み込まれてしまい、(資本主義に内在する力で)利潤率の傾向的低下といった命題も妥当すると説いたのだろう。しかし、やはり無理があったという感が否めない。

生産様式、資本家=経営者の経営手法などについて、一定という厳しい前提を置けばそうなるかもしれないが、その前提が崩れ、例えば技術革新によって、かなり安く生産できる方法が一般化した場合、あるいは高付加価値に伴いかなり高い価格でも、買い手がペイすると考え高い価格で購入することが一般化すれば、企業は高い利潤率が確保でき、利潤率の傾向的低下を回避できる。

こうした発想は柴田先生が、一般均衡論に立脚しながらも「技術革新」という動態的な力学の作用を論拠に、利潤率の傾向的低下に異議を唱えたシュンぺータ(墺)のゼミ生(ハーバード大・留学時の一時期)として学んだからだろう。

柴田先生は広く欧米の一流経済学者とも交流しており、ケインズから受けた評価も高かったようだ。これは柴田先生が数式をもって論理展開することができたことにもよるのではないか。

数式を用いれば外国語に翻訳することなく、また論理展開に言葉を多用することはない。数式による論理展開は万国の共通言語だからだ。

◆利潤率傾向的低下に関する実証分析

マルクスにとって、資本主義の「利潤率の傾向的低下」は、資本主義の崩壊と社会主義・共産主義の必然的な到来を示唆する「肝」の部分であり、譲れないところだろう。

実証的にはどうか。

米国経済学者の有名どころのⅯ.フェルドシュタイン(全米経済研究所名誉教授)や若くしてはハーバード大の学長を務めたⅬ.サマーズなどが利潤率の傾向的低下について米国を例に検証したが、傾向的低下は認められなかったとしている。

また、マルクス経済学者の中にも、傾向的低下が認められないとする論文が出されているようだ。

◆柴田ゼミ

柴田先生は昭和21年(1946年)に京大教授を辞任後、昭和27年(1952年)に山大教授に就任されている。

柴田先生は、山大学内で根拠薄弱な思想的な風評が立ったこともあり、8年後に山大を辞職され他学へ移られた。この時、柴田ゼミは安部一成先生に引き継がれたようだ。

柴田先生は経済的に困窮した生徒を支援しておられたようで、山本英太郎先生もお世話になったらしい。

山本英太郎先生は早くにお亡くなりになったが、今ではあの、ふくよかな恵比須顔が懐かしく思い出される。山本先生も若い時は苦労されていたようで、奨学金を返し終えたのが齢43の時だと常々仰っていたが、そういえば親が決して裕福とはいえなかった私が奨学金を返し終えたのも43の時だった。

(学23期kz)

参考 大学27期 阿部 廉氏 「母校は西日本最古の大学である」―学都開闢200周年に向けて―

柴田敬先生

コメントを残す