山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2023年8月トピックス】
二つの出来事が我が国に及ぼした影響は誠に大きいものがあった。
当然年若き松陰にとっても大きな影響を与えた。
アヘン戦争とペリー来航だ。
◆アヘン戦争
天保14年(1843年)松陰14歳の時、我が国の朝野を「足元から震え上がらせた」アヘン戦争が起きる。
中国が「欧州の蛮国」英国に屈したという。その中国では欧州人が街中を闊歩し、地元民は欧州人に服従している姿が伝わっている。
途上国の中国ではない。
当時中国は我が国にとって、千年の長きにわたり、我が国の政治、文化の模範であり、儒者にとっては孔子や孟子を生んだいわば模範国であり、思想「先進国」だ。また、あの偉大な釈迦を生んだインドも英国の植民地になったというではないか。
その英国が日本を目指してくればどのようなことになるか。
備えなければ「第二の中国」、「第二のインド」となる。
松陰が師と仰ぐ松代藩士・佐久間象山は直ちに儒学を捨て、西洋流砲術を志す。
アヘン戦争を契機に国を憂えての遍歴が始まる。
清が大敗したことが気にかかっており、これまでの兵法が時代遅れではないかという疑問を持ちながら。
◆ペリー来航
もうひとつの大事件が10年後に起きる。
嘉永6年(1853年)、松陰24歳の時。ペリーの浦賀来航だ。
ペリー来航を契機に松陰は士籍を剥奪された後、密航の国禁を犯すし、萩に護送されて投獄される。
釈放後も監視される身ながら、かつて明倫館の兵学教授を務めた松陰の学殖は兵学の講釈にとどまらず、また単なる外国排斥の攘夷論者でもなかった
◆渡航を志すも・・・
1853年にペリーの来航を見た後、唐突に海外渡航を果たしたいとの意向を黒船に伝えるも乗船拒否。そこで、同年、長崎に来航していたロシア・プチャーチンの船に乗り込もうとしたが、クリミア戦争で予定より早く出航したためプチャーチンの船にも乗り遅れた。
また、次の機会に再度ペリーの船に乗り込もうとするが、無許可の海外渡航という国禁を犯す松陰を庇えば締結されたばかりの和親条約が水泡に帰すことを懼れ、ペリー側に乗り込みを拒否される。
◇なにゆえの過激な行動か
書斎の人にあらず、行動の人という松陰評がある。
山鹿流兵学を講じたが、もともと客観的に外側から物事を観察し著述する「学者」ではなかったのではないか。教育者であり、行動派の思想家だったといえるかもしれない。
蘭語などの外国語が不自由で、松陰の知識の総体は同時代の知識人より「かなり」低かったという評価もある。
なにゆえに過激になったのか
温和で純粋、丁寧、質素だった松陰は、藩主にも熱い忠誠心を持つと同時に何よりも天朝に絶対的な信頼を捧げていた。これが松陰をあのような言動に追いやったという見方がある。
また、アヘン戦争による清の窮状を踏まえ外国の来航を過度に不安視し、それゆえに勅許を得ずに条約を結んだ幕府が許せなかった。許せないというより、外国からの蹂躙に怯えたのだろう。
こうしたこともあり29歳、刑に処せられる1年前の安政5年(1858年)に水野土佐の守忠央(ただなか)暗殺、安政の大獄を進めた老中・間部詮勝(まなべあきかつ)要撃という過激な主張をし始める。
4歳下の木戸孝允が諫言役として江戸から萩に向かうが、松陰は頑なで、木戸の説得は失敗に終わり江戸に帰っていった。こういう頑固な一面を抱えており、安政の大獄の最後の犠牲者となった。
周りの人にも大変な迷惑を掛けた。藩主敬親、周布政之助、兄の梅太郎なかりせば早くに打ち首になっており、30までも生き延びていなかったのではないか。
◆一君万民
松陰を評価すべきはこの一点かもしれない。
これこそ儒教・朱子学に染まった士農工商の徳川の世を新たな世界、民主主義の世界に導いた当時の革命的な思想ではなかったか。松陰を評価すべき最大の点はここに存する。
清や朝鮮にできず、欧米列強と肩を並べる国民国家となったのは、「一君万民」思想が士農工商の階層性を破壊したからだ。
人々の階層を超え、藩を超え、天皇を中心に抱くオールジャパンとして列強国の一国として世界に踊り出る基盤を創り出したのだ。
(学23期kz)