山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2023年9月トピックス】
第1回長州歴史ウォークでは氷川神社から乃木神社まで赤坂周辺を巡ったが、赤坂を好んだ勝海舟の住居跡も訪ねた。
勝海舟を好む歴史愛好家は多く、3年前の2020年にも勝海舟記念館が洗足池(大田区)のほとりに開館した。
しかし、この勝海舟、江戸本所(墨田区両国)の下級武士から身を起こし、幕末の偉人となったが、クセのある人物だったようだ。
勝が「合わない」といった人物の中で有名どころは徳川慶喜、娘婿となった佐久間象山が挙げられるが、豊前(大分)中津藩の下級武士であった福澤諭吉と火花を散らせた話も有名だ。
同じ下級武士出身で幕臣となった勝と福澤。歳は勝が福澤より11歳上だった。勝は年下を小ばかにし、上から見下すような態度をとるクセがあったようだ。
福澤諭吉自身も慎み深い性格ではなかったようで、福澤に対する人物評価も、人格円満との話はあまり聞かれない。クセのある者同士の勝海舟と福澤諭吉、この二人はソリが合わなかったようだ。特に福澤は勝を「心底嫌っていた」という。
◇対立軸 その1.徳川慶喜を巡って
徳川慶喜を軸にすると両者は正反対の立場をとる。
そもそもこの二人は幕臣だ。このため福澤が慶喜を支えるとするのは当然だ。しかし、勝は同じ幕臣でありながら、「国家の体をなしていない徳川体制」をいち早く刷新すべきとの立場をとる。
これを国家観に引き延ばせば、福澤はあくまで幕府を中心に政治、外交を展開すべしとし、将軍・慶喜の絶対君主制を支持する立場、他方勝は、弱体となった幕府に雄藩・大名連合が取って代わる、いわば連邦共和制をとる立場だ。
こうした在るべき国家観の違いは、江戸城の無血開城に当たっての見解の違いを生む。
すなわち福澤は勝の江戸城の無血開城に異論を唱え、幕府として慶喜の指揮下で徹底的に薩・長と戦うべきとした。
他方、勝は幕臣でありながらも、弱体化した徳川幕府体制では西欧列強とは戦えず、薩摩藩と長州藩などの雄藩が軸となって国を建て直すべきで、薩長との戦(いくさ)をいわば「国内での小競り合い」との見方をする。
こうした異なる国家観を持つ両者は、薩摩藩、長州藩の動きに対しても見解の違いが出ることになる。
すなわち福澤は、幕臣として当然ながら薩長、特に長州を敵視していた。福澤によると「長州藩士は尊王攘夷を名目として、内心では邪心を抱き、幕府に代わって国政を壟断するもの」と激しく非難する。
勝は逆だ。逆というよりも、敵は国内ではなく外にいるのであり、既述した通り、「国内での小競り合い」では外国に勝てないとの立場であり、薩・長のスタンスに与する。
両者はそれぞれ発言力もあるし、弁も立つ。
異なる国家観を持つ両者。それゆえにいろいろな場面で火花を散らすことになる。
つづく
(学23期kz)
勝海舟記念館(大田区立)