ソリの合わない二人の英傑 その2 勝海舟と福澤諭吉

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年9月トピックス】

立憲君主制を支持する福澤諭吉と連邦共和制を支持する勝海舟。あるべき国家像を異にする両者はさまざまなところでぶつかる。

もっとも、前稿で述べたように福澤は勝を「心底嫌っていた」が、勝は福澤よりも11歳年上のため、福澤の物言いを、苦々しく思いながらも半ば意識的に受け流していた感があるのだが。

◇咸臨丸に乗り合わせた勝と福澤

うるさ型の福澤が珍しく尊敬した人物がいる。

日米修好通商条約批准書交換のため遣米使節団で、正使一行が乗った米国軍艦ポーハタン号の随伴艦・咸臨丸の総督(司令官)に任じられた木村摂津守喜毅だ。

木村は毛並みが良く軍艦奉行、若手官僚のホープであった。勝は格下の艦長。福澤は木村に頼み込み、従僕という立場で渡航が叶ったのであり、立場上木村に頭が上がらない。この木村と勝と三人が同じ咸臨丸に乗り合わせたことがある。

しかし、福澤同様、運悪く木村も勝より7歳年下だった。勝は上司であっても年下の者には上から目線の口をきく。

米国までの航海中、道半ばにして勝艦長が上司の木村司令官と対立し、勝が船を停め、ボートで帰国しようとする場面が記録に残っている。福澤が尊敬する木村司令官に勝が不服の態度を示すこうした場面も、福澤にとって勝への反発を強めたのだろう。

司令官の木村は評判の良い人物で、米国でも良い評判が立った。サンフランシスコまでの航海で傷んだ咸臨丸の修理費を米国が免除してくれた際も、「義理が立たぬ」として、持参していた資金のうち2万千両(約25億円)をサンフランシスコの大火で夫を失った婦人団体に寄付している。

木村は帰国後も幕府の役人として無事に勤めを果たし、人目を惹くこともなく、静かに現役を退いた。

福澤が尊敬した木村喜毅、号は「芥舟(かいしゅう)」。

海舟ならぬ、もう一人の「かいしゅう」だった。

◇新政府で出世した勝、在野で大活躍した福澤

勝は明治新政府になってからも新政府内で出世し、伯爵となり、枢密顧問官を務めるまでに至る。

こうした新政府でも華々しい活躍をした勝は、静かに幕府を去った木村司令官とは異なる。また、福澤も新政府からの誘いを辞し、在野で大活躍した。

新政府では、福澤がかつて敵視していた長州閥が大きな権力を握っていたからかも知れない。

◇「学問のすすめ」 福澤の真意とは・・・

茶目っ気のある福澤先生。

「学問のすすめ」の出だし、「人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」。

福澤の言葉のように引用される言葉だが、残念ながらこの言葉はトーマス.ジェファーソンが起草した米国独立宣言一説を和訳したものとの説が有力だ。

福澤が「学問のすすめ」の、福澤がこの言葉を用いた真意は何だろうか。

思うに、年長者の勝海舟に接する福澤諭吉自身の態度の決意表明であり、また年下を見下す勝海舟に対する福澤諭吉の反発だった、と解釈するのも面白い。

勝海舟とは異なり、幕臣のあるべき姿として将軍・慶喜を立てた福澤であったが、同時代に福澤諭吉同様、徳川慶喜公に尽くし、果ては名声を博した人物がもう一人いる。

渋沢栄一だ。福澤に続き、次の1万円札の顔となる渋沢栄一。

この二人、奇妙な縁でつながっている。

(学23期・kz)

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