ソリの合わない二人の英傑 その3 勝と福澤の語学対決

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年9月トピックス】

◇オランダ語

勝も福澤も海外を理解するために最初は蘭学から入った。使用言語はオランダ語。当時、開国前の日本が西洋社会の窓として開かれていたのが長崎の出島であった。

勝がオランダ語に最初に触れたのが江戸城に据えられた大砲だったという。大砲の砲身脇にオランダ語が書かれていたのだ。勝は海防には蘭語読解が必要であることを認識し、これを契機にオランダ語習得に熱を上げて、当時では貴重であった蘭和辞書ズーフ・ハルマを筆写するに至る。そしてペリー来航(1853)の3年前に蘭学・兵学塾を開いている。

他方、福澤も父が蘭学の盛んな気風だった豊前中津藩の家臣だったことから蘭学修行に励む。全国から秀才が集まる緒方洪庵の適塾を経て、安政5年(1858年)には中津藩の命を受けて江戸の中津藩邸の蘭学塾で蘭学を教授している。

◇外国語の読み書きと会話力は別物

横浜での出来事。福澤が横浜でオランダ語が通じないと思った経験をする。横浜で出会ったのは蘭語ではなく英語だった。

世界を動かしているのは大英帝国。オランダは西欧の小さな一国であることを気づかされた瞬間だったのかもしれない。ここで英語の必要性を痛感したのだろう。そこで、福沢は英語を勉強して米国渡航に臨んだ。

咸臨丸で到着したサンフランシスコでのこと。同じ船に乗った勝海舟が現地の者と「対等に会話していた」現場を福沢が目撃する。英語を話せた勝と、この時には残念ながらまだ英語を思うように操れなかった福澤。

ここでも福澤諭吉の勝海舟に対する嫉妬が生じたのだろう。

(学23期kz)

咸臨丸

コメントを残す