山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2023年 10月トピックス】
◆玉野井芳郎(1918~1985)
経済学者の大御所である。
多くの著作があり、私も学生の頃から著作物は目にしていたが、山口高商卒の先輩であるとは知らなかった。
玉野井のいろいろな著書の経歴欄に「山口高商」がひとつも出てこないのが残念ではあるが。
経済原論(理論経済学)、経済学史が専門で、頭がよく整理されており、バランスの取れた経済学者といえる。
平易でわかりやすい文章を心掛けておられるようで、このため経済学の入門書、教科書、解説書を作るに当たって、各方面から声が掛かったのだろう。
1918年の生まれで柳井市出身。山口高商から東北大学に進学。東北大助教授になるも1951年に東大助教授の職を得、そのまま東京大学で教鞭を取り、東大の名誉教授になっている。
東大助教授時代にはハーバード大、教授時代にはドイツのボーフム大、ケルン大に留学している。
環境問題、地域経済のほかジェンダー問題などの著作や翻訳があり、学問的な関心の幅が広い。
私が昭和46年(1951年)に入学した山大経済には、マル経・近経を色分けすればマル経の先生方が多かったという印象を持っている。
日本にはいつ、どのようにマルクス主義が入ってきたのか。
「東大名誉教授」の玉野井に「日本の経済学」(中公新書 1971年)という著作がある。
ここで玉野井は、戦前の日本において、「近代経済学はその萌芽を宿したに過ぎないが、マルクス主義思想は確かに定着していった」とし、その背景に明治期に平等主義を謳う自由民権思想とキリスト教という源泉があったとしている。
1900年当初、大学内の状況はどうだったのか。
学生時代の大内兵衛を登場してもらうと、大内曰く、「大学生のうちでは、当時マルクスを本当にやろうと考えたり、社会主義が日本で政治運動の理想となると考えている人はいなかった。要するに社会主義は外国の学問、外国の思想であって、運動ではなかった」としている。
しかしこの頃から世間では社会主義運動がにわかに活発化していく。
1901年に足尾銅山事件が社会問題化したことも大きな契機のひとつにもなった。
その翌年の1902年にはマルクスを紹介した社会主義運動家・西川光二郎の「カール・マルクス」が刊行されている。
また、その翌年には階級の発生、労働者の窮乏、貧困、失業などの問題を扱った片山潜や幸徳秋水の著作が刊行された。
河上肇も1905年に読売新聞に「社会主義評論」を連載し始めている。
欧州に遅れての機械文明の進展、工場問題の発生、目に見える形での階級の発生、労働者の貧困、失業問題。
こうした中でのロシア革命(1917年)といった社会主義の優位性を示すかのような事件が生じた。
こうした中で、多くの経済学者がマルクス主義に傾倒していったのだろう。
学生時代の私自身も、マルクス主義に触れた時、単なる経済学を超えたものに見えた。
短期的、微視的で精緻な分析とは逆に哲学的、歴史的、巨視的、総合・学際的で、しかも貧しい者に優しい哲学体系にみえたのだ。
(学23期kz)