山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2023年 11月トピックス】
河上肇(旧制山口高等学校—東京帝国大学)と同じ経歴を辿った河上の一年後輩に作田莊一(しょういち)がいる。明治11年(1878年)12月生まれ、防府・三田尻出身。
家が貧しかったため作田家の養子に入ったことで上級学校への進学が可能となった。
◆河上との交流
学生時代は旧制山校の前身である山口高等中学校の寮で河上と1年間同室だったという。二人は濃密な時間を過ごしたのだろう。
作田は河上を追うように東京帝国大学に進学する。
東大卒業後、明治45年(1912年)に山口高商の教授に就任した。しばらく山口高商で教授職を務めていたが、大正10年(1921年)には既に京都帝国大学の教授に就任していた河上の推薦で京都帝国大の助教授を兼務することになる。京大でも研究室が隣同士で交流が密であったようだ。
作田は京大兼務となった2年後、京大が本務となり、昭和5年(1930年)京大教授に就任する。河上が京大教授になって15年後の京大教授就任だったが、もともと相当な底力があることが認められ、翌昭和6年には経済学部長を務めている。
作田は思想的には河上とは違っていた。後に文部省が国体に関する正統的な解説書作成のために立ちあげた「国体の本義」編集委員を務めたように、マルクス主義に傾いていった河上とは思想的には真逆の立場だった。
作田は昭和13年(1938年)に開学した満州国務院直轄の国立大学である満州建国大学の副総長となっている。満州建国大学の校長は国務大臣が兼務することになっており、実質的な総長は副総長の作田が務めていた。事実上の校長だ。
建国大学では「五族協和」のスローガンのもと、日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアから、極めて優秀な若人が集い、寄宿舎で学んだ。
建国大学が開学した昭和13年とは日中戦争が始まっていた時にあたる。盧溝橋事件が起きたのが開学の前年にあたる1937年だ。時は日中戦争に突入していた。こうした中、ある時憲兵隊から反日の嫌疑を掛けられ中国人を中心とした多くの学生が憲兵に引っ張られるという事件が起きた。
人情に厚い作田は学生の釈放を求めて憲兵隊の庁舎に何度も足を運び、熱心に掛け合うが、学生の釈放は叶わなかった。
これを苦に作田は副総長を辞任している。
◆柴田との交流
作田はこのシリーズで取り上げた世界的な経済学者・柴田敬とも山口高商つながりで関係が深い。
作田が京大助教授を兼務した年に、柴田が山口高商に入学している。柴田は山口高商から京大に進学し、京大卒業後の身の振り方についても作田に相談していた模様だ。
結局柴田は京大に残り、同大学院を経て講師、助教授と階段を登っていき、昭和14年(1939年)に教授に就任する。
柴田は教授就任になった翌年に満州に出張し、作田が実質的な校長を務めて3年目の満州建国大学で講演している。
京都帝国大学経済学会は作田の還暦を祝す書籍「作田博士還暦記念論文集」(昭和14年)を刊行しており、柴田敬も「資本主義と支那事變」というタイトルで執筆陣に名を連ねている。
河上肇と作田莊一、それに柴田敬。
この三人を山口高商の三碩学と呼ぶ人もいる。
(学23期kz)