ペリー来航と長州藩 その3 伊藤利助(博文)

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

ペリー来航に伴い相州警備を任された長州藩。若き伊藤利助は相州・上宮田での陣屋勤めに就く。

しかし、相州・上宮田の陣屋勤めは1年で交代する。伊藤が配属された指揮官来原良蔵は伊藤が長州に帰る際、伊藤に来原の昵懇な友人・吉田松陰を訪ねるよう伝えた。

長州へ戻った利助はさっそく松下村塾の松陰を訪ねる。

松陰は利助を「才劣り、学幼き」と評しているが、続けて「質直にして華なし。僕、頗(すこぶ)るこれを愛す」としている。

松陰が久坂玄瑞に宛てた手紙では「中々周旋家になりそうな」ともしている。

周旋家。間に入って物事を取りまとめる人物。政治家にとって欠かせない才の一つだ。大物政治家になる素質があったのだろう。

安政5年(1858年)18歳の時、松下村塾の縁で三歳年上の山縣らと京都で情報収集にあたる「飛耳長目(ひじちょうもく)」として活躍している。これは行動の人松陰らしく、行動するには正確な情報が必要だとして松陰はこれを重視していたようだ。

またその年には、洋式兵術を学ぶため、長崎海軍伝習所に来原の手付(従者)として同行しており、来原の死後も来原の遺志を継いで活動する。

その翌年、安政6年には来原の義理の兄・桂小五郎の手付として江戸へ上る。

初めての江戸だ。見るもの聞くものが全て新鮮だったという。

ペリーが来航して5年ほど。大老・井伊直弼は開国論の下、安政5年(1858年)、米国(ハリス)と日米修好通商条約を締結したのを始め、オランダ、ロシア、イギリス、フランスなど4か国と修好通商条約(安政の5か国条約)を結ぶ。

世間では開国論と攘夷論が拮抗していたが、長州では攘夷運動が活発化していたこともあり、文久2年(1862年)には品川御殿山の英国公使館焼き討ち事件を起こす。

しかし、攘夷を実行しても所詮外国勢には敵わず、アヘン戦争の末路の二の舞ともなりかねない。むしろ外国から学ばなければ日本が立ち行かないとの機運が生まれ、長州ファイブの英国ロンドン行きにつながった。

◆恩人・来原良蔵

来原によって伊藤公が世に出る途が一気に開かれた。

来原によって、伊藤は吉田松陰の門を叩き、松下村塾で高杉晋作、山縣有朋らと出会う。また伊藤は江戸で来原の義理の兄・桂小五郎の従者として動き、「周旋家」としての器を広げ、磨いていった。

伊藤公が名をなした源は来原だった。

伊藤公は来原良蔵のことを「人生に渡り最大の恩人」としている。

◆来原良蔵の墓

来原は不幸にして34歳にして自害に至る。

来原の墓は山口とは別に「吉田松陰先生他烈士墓」として世田谷・松陰神社にも置かれている。

(学23期kz)

コメントを残す