御殿山と伊藤博文公

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2023年 11月トピックス】

◆品川・御殿山

品川・御殿山は家康が築いた「品川御殿」がその名の由来だ。目の前に海が開け、風光明媚で桜の名所として有名だったという。また歴代将軍が鷹狩りに興じる休憩場所であり、代々将軍家に諸大名をもてなす迎賓館として重用されてきた。現在では格の高い高級住宅地となっている。

◆英国公使館焼き討ち

外国からの外交攻勢にさらされていた時、井伊直弼の後を受けた老中・安藤信正は英・米・仏など列強の機嫌を取るため、風光明媚で桜の名所・御殿山に公使館を建てることを考えた。

英国公使館はペリー来航から10年後の文久2年(1963年)に着工し、翌年早々の完工後、公使が移り住んで執務を始めるはずだった。

その直前の12月12日。ここに攘夷に燃える長州藩士が建築途上の英国公使館の焼き討ちを決行した。

隊長 高杉晋作

副長 久坂玄瑞

火付け役 井上馨、伊藤博文

見張り役 品川弥二郎

またこの中には長州ファイブで、工業の父と呼ばれることになる山尾庸三もいたようだ。

東禅寺事件で英公使オールコックは横浜に執務場所を変えて職務を行っていたが、長州藩士は横浜でのオールコック暗殺を計画している。しかしこの計画は幕府に漏れたため暗殺は未然に終わっていた。

このため長州藩士は暗殺に代えて、御殿山に建築中の英公使館焼き討ちを思いつく。

万全を期すため品川宿の飯売旅籠屋相模屋(土蔵相模)で決行者が集い、公使館焼き討ちに向けた綿密な打合せをして臨んだ。

空堀を超え、侵入を防ぐ柵が行く手を阻むも、伊藤が気を利かせて直前に入手していたノコギリで柵を切断、建築途上の建物に押し入り、火を放った。

高杉と久坂は燃えさかる英公使館を芝浦の妓楼でまるで花火を見るように燃え上がる公使館を眺めながら酒盛りをしたという。

放火された現場には銃一丁、ノコギリ、下駄片足、遊女の艶文が残っていたという。

この事件の犯人は不明ではあったが、幕府は長州の仕業だと睨んでいたという。

しかし、公使館建設には朝廷の反対もあったほか、品川の町民も公使館建設で御殿山名物の桜が切られたことをよく思っておらず、むしろ公使館焼き討ちを歓迎する向きも少なくなかった。

このためお上の追及は本格的なものにはならなかったという。

なお、現場にあった艶文とは書き手が「お花」とあり、宛名がなかったが、どうやら伊藤が落としたものだったという。

その後、伊藤博文は道一本隔てた八ツ山に広大な土地を手当てする。

毛利家の私邸があったところだ。

16500坪の土地。

目の前は海だ。

伊藤の大磯の別荘「滄浪閣(そうろうかく)」。

ここも目の前が海だ。

(学23期kz)

葛飾北斎 富岳三十六景 東海道品川御殿山ノ不二
品川区のホームページから

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