第4回 長州歴史ウォーク開催・品川編

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

11月25日(土)、長州歴史ウォークを開催した。訪れたのは品川。

集ったのは学11期(昭和38年卒)から学71期(新社会人)までの32人。

今回は同窓生夫人が多く参加されたのが特徴だ。奥様は教育学部のご出身。かつては亀山キャンパスでは男性が多い経済学部、その隣に女性が多い教育学部の校舎があり、めでたくゴールインしたカップルが多い。

また今回は人文学や理学部の同窓生も友好参加して頂いたほか、長崎大・経済、松山大、近畿大からもゲスト参加して頂いた。

一行は品川駅に集合し、10時半過ぎにスタート。

最初の目的地は第一京浜を渡った高輪地区。旧毛利藩の私邸があったところだ。

今ではかなりの部分がプリンスホテルの敷地となっている。

またここの一角には2021年9月末まで我々の同窓生が懇親を深める拠点となった高輪和疆館があったところでもある。

ここは閑静な高級住宅地で、在外公館も多い。セルビア大使館あり、アイスランド大使館あり。

旧和疆館から都道317号線(八ツ山通り)に向かう左手には鬱蒼とした森があり、旧くしっかりした石垣に囲まれた一角がある。

かつて伊藤博文の邸宅があったところだ。明治22年に三菱・岩崎家の手に渡り、明治43年に岩崎弥太郎の弟・岩崎弥之助が重厚な洋館を建て、現在は三菱グループの施設として使われているのが開東閣だ。る。

開東閣の前の通りは八ツ山通り。通称ソニー通りと呼ばれており、開東閣から100メートルほど五反田方面に行ったところには1947年から2007年までソニー本社があった。そこでウォークマン、プレイステーションなどをヒットさせている。

ソニー通りの緩やかな坂を下り、第一京浜を横切り、八ツ山橋を渡って旧東海道品川宿に出る。

日本橋から京へ向かう最初の宿場町だ。

ここには旧東海道の面影が残っている。

通りにはかつて攘夷に燃える長州藩士が建築途上の英国公使館焼き討ちに向けて秘かに集った旅籠屋「土蔵相模」跡がある。

しかし、いまでは跡地にマンションが建ち、コンビニが建っている。

この付近は海沿いの地で通りのすぐ先は海。潮の香りが漂う。岸には屋形船や釣り船が繋がれている。

品川浦

ここで昼食。

午後の最初の訪問地は御殿山。

御殿山庭園

英国公使館焼き討ち跡地。現在は団地になっている。

団地の脇を通って品川神社へ。

徳川家康が関ケ原の戦勝祈願をしたところだ。

拝殿の横の社には祈願成就を果たした家康が奉納した「天下一嘗(ひとなめ)の面」と「葵神輿」が展示されている。

品川神社の裏手には板垣退助の墓があり、隠れた名所となっている。

墓の脇には「板垣死すとも自由は死せず」と記された石碑がある。

揮毫したのは田布施町出身の佐藤栄作。

本陣跡

本陣跡の説明板に長州藩毛利家の家紋「一文字三ツ星」の印が描かれているが、これは現在建替え休館中の品川歴史館の展示物の中に長州藩の大名一行が泊まった時の本陣が展示されていたからだと思われる。なぜ長州藩の本陣なのかについては謎だ。

本陣跡を離れ、新馬場から立合川まで京急に乗車し、最後の訪問地である浜川砲台跡へ。

土佐藩は品川・浜川に下屋敷があった。

ペリー来航時、沿岸警備のため「臨時御用」として土佐から江戸へ出てきたばかりの二十歳の龍馬がこの地で警備についた。

下屋敷の河口には土佐藩の抱え屋敷があり、その一角に砲台があった。当時八門の大砲が置かれていたが、そのうち最も大きな大砲であった8貫目ホーウィッスル砲が復元・展示されている。

浜川砲台跡

二十歳の頃の龍馬像

ここで解散。

あとは三々五々、気の合ったメンバー同士で乾杯!。

事務局記

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