氷雨の国葬 山縣有朋 その2

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 2月トピックス】  

◆山縣公の評価見直し

前稿で述べた西郷隆盛の件に限らず、山縣公はあまり良い評価がなされてこなかった。

陸軍公金汚職(山城屋事件)、徴兵制の導入、秩禄処分、日清戦争へと暴走させた人物、藩閥政治、強い猜疑心など。

しかし、専門家による史実の研究が進むにつれ、山縣の「悪評、悪人説」は根拠がないとする見方が強まっているようだ。

陸軍汚職には関与していないこと、徴兵制の導入はむしろ軍隊の近代化をもたらしたこと、

秩禄処分は公債を出して「士族」の首を切り、士族の怒りを買ったが、改革断行により国の財政に余力ができ、西欧列強と伍する軍備の調達だけでなく、産業の近代化や教育改革を進める原資となった。

また藩閥政治の代名詞にもなった山縣の人材囲い込みも、民主的な政治勢力が未成熟ゆえの信頼すべき子飼いの人材登用だったことにある。

昭和陸軍暴走の遠因説説も、むしろ山縣は対欧米協調路線の慎重派であったとする評価がなされ始めている。

◆山縣公の実務能力

奇兵隊でのナンバーツーにあたる「軍監」、戊辰戦争での実戦経験、新政府内務大臣時代の地方自治制度、選挙制度定着、教育勅語交付など、実務能力が高かったようだ。このため大久保利通からも信頼を得ており、長州藩士の兄貴分で、明治の三傑の一人、木戸孝允からも厚い信頼を得ていた。

それゆえ失脚しかかっても、またすぐに重用されている。

新政府にあってはこうした高い実務能力は代えがたい魅力があったのだろう。

私人としてもの山縣は趣味人で、和歌や漢詩を好み、筆も達者だ。

また庭園づくりには高く評価されている。

椿山荘然り、小田原の古希庵然り、京都の無鄰菴(むりんあん)然り、

山縣の三大名庭園といわれ、日本の近代庭園の傑作とされる。

◆山縣公の最期

「陽の伊藤、陰の山縣」と言われてきた。

しかし、最期はどうであったか。

伊藤公は68歳の時に外地で凶弾に倒れる。

片や山縣公は享年85歳で永眠した。

眠りについた処は、自慢の庭園である小田原の古希庵であった。

(学23期kz)

小田原 古希庵

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