山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年2月トピックス】
◆山縣公の葬儀
寒い冬の季節。この時期に雨が降ると山縣有朋公の葬儀を思い出す。
今から約100年前の2月初旬、山縣の葬儀が日比谷公園で行われた。
気の毒なものだったようだ。
このひと月前に、同じ日比谷公園で行われた大隈重信公の葬儀。
国葬ではなく「国民葬」であり、集まった弔問客は約30万人と新聞に報じられた。
片や山縣公の葬儀は「国葬」であったが、氷雨降るなか葬儀に参列したのは千人ほど。
参列者は軍人が多く「軍人葬」のようだったという。
しかし参列者が少なかったのは氷雨のせいだけではないようだ。
◆山縣公と伊藤公
江戸時代にあって、身分の低いものは逆立ちしても大きな出世はできなかった。
同じ長州藩で似通った境遇であった伊藤博文と山縣有朋。
二人は盟友であり、二人とも明治になって出世し、明治の元勲と呼ばれるまでに上り詰める。
伊藤は初代内閣総理大臣となり、山縣も二度にわたり総理大臣となり、日本陸軍の父として公爵にまでなるに至った。
しかし、伊藤公は「お札の顔」にまでになったが、山縣公の評価は否定的なものが多かった。
◆西郷隆盛が唯一心を通わせた長州藩士・山縣有朋
伊藤のように社交的ではなく、むしろ不器用だった山縣。
山縣は不器用、真面目で律儀な性格。
西郷も同じだ。
山縣は西郷とは京都で出会い、いち早く気脈を通じている。
その時長州は倒幕に動いていたが、長州一藩では討幕派難しく、このため山縣は薩摩の出方を見る要員として京都に配置されていたが、そこで西郷と出会うことになった。
山縣は身体同様、心も大きな西郷に惚れた。
西郷も山縣に自分の分身を見たようだ。
このため山縣は窮地に陥った時も幾度となく西郷によって救われている。
山縣の追い落としを狙う薩摩藩士から上がった数々の批判を西郷が抑え、山縣が窮地に陥った時も西郷が新政府と掛け合い、三たび、四たびと山縣救済に動いた。
しかし何とも皮肉なことに、田原坂で山縣は官軍の将という立場で、西郷と相対することになった。
慕うものの多かった西郷だ。
西郷は自決するに至るが、ここで山縣は「西郷を自決させた張本人」として悪評が立つ。
このほかにも山縣には、陸軍公金汚職(山城屋事件)、徴兵制の導入、秩禄処分、日本陸軍暴走の遠因、強い猜疑心を伴う藩閥政治といった否定的な評価がなされてきた。
しかし、最近の史実研究では、こうした評価が覆され、山縣公の評価見直しがなされている。
つづく
(学23期kz)