山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年 11月トピックス】
◆藩内で及ぶ者なし
長井家は毛利家と同じく大江広元が先祖にあたる申し分のない家柄で長州藩家臣団の中でも屈指の名門の出だ。
明倫館に学び、時の殿様毛利敬親公から厚い信任を得た。
非常な秀才で、人物も重厚、見識の高さは「藩内で及ぶものなし」といわれた。
世の中が攘夷か開国かで揺れていた時、敬親公、すなわち「そうせい公」は「積極的に」江戸から長井を呼び戻し、世の混乱を収拾する打開策の立案を命じた。
揺れ動く時代はどのような策であっても評価は揺れ動き、人の評価も猫の目のように変わる。
評価が変われば生身の保証もなされない危ない時代だ。
刀あり、切腹ありの時代。
長井はこのこともよく心得ていたつもりだったのだろう。
それゆえ、一度は藩主からの立案依頼の命(めい)を断った。
◆開国論が藩論に
しかし藩主が重ねて長井に命じたため、長井も腹を決め、「国のとるべき途」を取り纏めた策を建白した。
中身はというと・・・後々から見れば合理的で無理のない開国論だ。
長井曰く、通商条約を結んだことは非難さるべきではない。条約を破案にすれば列強との戦は避けられず、日本に勝ち目はない。むしろ進んで開国し、貿易で富を得、富国強兵の国を作るべし。
・・・結局は、明治になって取られた策だ。
長井の建白に藩主も大いに感心し、長州藩の藩論とした。
また、長井に藩主の名代として江戸で広めて来るべしと、長井に「中老」の身分を与え、「雅楽(うた)」というみやびな名を授けた。
この建白書「航海遠略策」は京や江戸で大好評となったという。
◆逆の潮目
しかし、潮目が急に変わった。
江戸では坂下門外の変が起きる。公武合体を進めていた老中安藤信正が攘夷派に襲われ、安藤が失脚する。これを機に長州藩では攘夷派が勢いを得たのだ。
その時攘夷派の総本山は水戸であったが、長州は攘夷の新たなリーダーになろうとしていた。
どこの世界でも同様、リーダーを取りに行くには「過激」は付きもの。
長州藩でも攘夷の新たなリーダーとして君臨するにはより過激な装いを囲う必要があった。
藩主が認めた「開国」の藩論であったが、藩内の過激な松下村塾攘夷派が藩論の流れを一気に変えた。
真逆の流れが藩論となった。
藩主はどうしたか。長井を救えたのか。
藩主は長井を救うどころか、過激攘夷論者の主張をどうすることも出来ず、なんと長井に切腹を命じることに相成った。
「そうせい公」の本領発揮だ。
いや、そうしないと己の身が危うくなるゆえの「そうせい」だったのかもしれない。
長井はどうしたのか。
長井は藩論が二分されることを憂い、脇差を握った。
◆辞世の句
長井雅楽 辞世の句
君がため 捨つる命は 惜しからで ただ思はるる 国の行く末
享年45歳。
岩倉具視の言が残る。
「長井より偉いものはない。あれは木戸や大久保より偉いぞよ」
(学23期kz)
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