山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年 5月トピックス】
幕末を描いた本を開くと、「川路聖謨」の活字をいたるところに見つけることができる。
名は「としあきら」と読む。なかなか読めない。
◆露・プチャーチン来航
ペリーが来航した直後に、4隻を率いてフリゲート艦パルラダ号に乗って長崎に来航した露・極東艦隊司令官プチャーチン。
ロシアとの間には、米国とは異なり北方領土境界問題を抱えていた。
ペリーと異なり幕府の指示通り、長崎で通商交渉をする。
外国奉行川路聖謨が全権代表として対応したのが川路聖謨(としあきら)だ。
一度目はペリー来航直後に来航したが、ロシアはクリミア戦争に突入し、英国・フランスとも敵対関係にあったため一旦退却する。
翌年下田に再来航するが、安政の東海地震により、載ってきた軍艦を失い、条約交渉は中断した。
1855年2月に日露和親条約(日露通好条約)を締結し、国境を千島列島の択捉島と得撫島の間と決め、樺太については従来通り両国民混住の地とした。
また下田、函館、長崎などの開港を認めた。
この条約締結日2月17日を1981年(昭和56年)「北方領土の日」と定めている。
川路聖謨については吉村昭の「落日の宴」がある。
◆ロシア人の川路評
川路はほんの虫だ。籠の中、宿の灯下でも朱子学の「近思録」を読み、中国の歴史書「資治通鑑」を紐解いたという。
ウイットがあり、どこへ行っても、どの職務についても評価は高く、みんなが味方した。
川路の評判がすこぶる良い。
では、この川路はロシア側にどう映ったか。
プチャーチンの秘書官のゴンチャロフが記録に残している。
岩波文庫 日本渡航記 原題はフレガート「パルラダ」号より
井上満訳
交渉が長引き川路が細君のところに帰りたがっており、交渉を急いでいた。
「身はここに居るが、心は江戸へ行っている」
この川路を私達は皆好いていた・・・川路は非常に聡明であった。彼は私達自身を反駁する巧妙な法をもってその知力を示すのであったが、それでもこの人を尊敬しない訳にはいかなかった。その一語一語が、眼差しの一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識と、ウィットと烱敏(けいびん)と練達を示していた。明知はどこへ行っても同じである。民族、服装、言語、宗教が違い、人生観まで違っていても聡明な人々の間には共通の特徴がある・・・・」
ゴンチャロフの確かな人物観察と、巧みな人物描写。
川路を観察し、記録を残したゴンチャロフとは何者か。
つづく
(学23期kz)
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