山口大学経済学部同窓会
鳳陽会東京支部
【2024年 11月トピックス】
◆ヒュースケンの日記
14歳で父を亡くし、21歳の時に母国オランダに母を残し立身出世を夢みて渡米したヘンリー・ヒュースケ君。ニューヨークの教会に通っている時、オランダ語のできる若者を通訳として探している者がいるという牧師の紹介を受け、合格。ハリスの通訳として採用された。安政3(1856)年、下田に着任したのは23歳の時だ。当時の日本では外国人との交渉の使用言語はオランダ語。ハリスが日本に渡るに当たってオランダ語と英語の両方ができる若い通訳は有難かったのだろう。
◆台風
ヒュースケンが着任して間もなく、下田を台風が襲った時のこと
・・・湾内の船はほとんど全部岸に打ち上げられ、街三分の一は破壊された。それなのに日本人は全く悲しまないのだ。泣き声、絶望、そんな姿はどこにもない。彼らは平気な様子で受けた被害を修復するために黙々と働いている。その落ち着いた姿は全く驚くばかり・・・
◆奉行の接待
翌年2月に御法度のはずの奉行私宅に招かれた時のこと。
・・・僕らはノリモン(駕籠)に乗せられて奉行の家に行ったが、ひどく窮屈な代物だった・・・用意されていた食事はスープ、鳥、生魚、煮魚、牡蠣などで、熱いサケ(酒)が出た。米から抽出した飲み物でとても変な味。でも僕が愉快そうな顔をしていたので、奉行や副奉行と乾杯を繰り返すことになってしまい、口中に嫌な感じが広がった。屋敷には女性は一人もおらず。政府の高官は人質として江戸の妻や娘を残してきているようだ。可哀そうな女性たち。せっかく招いてもらっても宴席に慈愛の天使たる女性がいないのはとっても空虚で寂しい・・・
◆謁見、そして憂慮
そのヒュースケンがハリスの通訳で慶喜に謁見したとき
・・・(外国とは異なり)日本の宮廷には人目を引くような豪華さはない。しかし宮廷の簡素さ、気品と威厳を備えた臣下たちの態度、宮廷に栄光を添える洗練された作法などはどれもダイヤモンドより輝いて見えた。あらゆる世界の大国をはねつけてきたこの帝国がようやく世界に仲間入りをしようとしており、僕の心は感動に震えた・・でも西洋の文明は日本のためになるのだろうか。僕はこの国の純朴さ、飾り気のなさを愛す。この豊かな国土のいたるところに満ちている笑い声。どこにも悲惨さを見いだせない。おお、西洋人よ。汝らは自らの悪徳をこの幸福な国に持ち込もうとしているのではないか?・・・
◆攘夷の刃に倒れたヒュースケン
また、ヒュースケンは、独語、仏語もできた。このため各国在日公館からの通訳要請が多く舞い込み、ちょっとした有名人だったようだ。
このヒュースケン君は1861年1月15日(西暦)、鳳陽会東京支部がある三田・赤羽橋に近い「中の橋」あたりで、攘夷を唱えるサムライの刃にかかった。
「夷(えびす)を攘(はら)う」ことが信条の攘夷浪士。
ヒュースケン君は開国に向かう日本の行く末を垣間見ることもなく、翌16日未明、29歳の誕生日を目前にした1月の中旬に絶命。江戸における外国人殺害の最初の犠牲者になった。
ヒュースケンの死に際し、ハリスほか各国在外公館の要請もあり、幕府はアムステレダムに居るヒュースケンの母に1万ドルの弔慰金を払っている。
ヒュースケンの墓は南麻布仏大使館に近い光林寺にある。訪れる者が多いのだろう。入り口には墓までの案内図が表示されており、墓には供物が捧げられていた。
墓石の文字は日本の石工が彫ったものなのだろうか。なかなか巧みに横文字が彫れている(写真参照)。
(学23期kz)
SACRED
To the Memorial of
HENRY C.J. HEUSKEN
Interpreter to the
AMERICAN LEGATION
in Japan
BORN AT AMSTERDAM
January 20. 1832
DIED AT JEDO
January 16. 1861