①横地校長と鳳陽先生子孫、そして漱石

山口大学経済学部同窓会

鳳陽会東京支部

【2024年 5月トピックス】  

◆一枚の写真

上田鳳陽先生の墓に立つ二人の人物。

写っているのは山口高商第三代校長横地石太郎氏。その隣に居る人物が上田鳳陽先生の末裔で第5代上田家当主茂雄氏である。

この欄で上田鳳陽先生について書いたことで、鳳陽先生の末裔・上田慶太氏と繋がることができた。

本文末の写真は慶太氏から入手したもので、松山空襲の戦禍を逃れたものだという。

写真に映った二人はもともと山口の人物ではない。この二人がその昔、同時代に松山おり、そこで繋がったようだ。

横地石太郎は明治27年に松山中学に転任してくる。

また上田鳳陽先生の子孫、茂雄氏も後に松山の連隊に属し、退役後は松山に在住、民間会社の社長に就いている。

◆上田茂雄氏(上田家第5代当主)

上田家第六代・内蔵亮(くらのすけ)氏の次男一雄氏が記した「上田家系年譜」によると、上田鳳陽51歳の時の孫娘サトと養子縁組をしたのが上田信義氏。この信義氏が上田家第4代当主となる。

信義氏に子はなく、このため養子縁組をする。それが5代目の茂雄氏だ。

茂雄氏は安政元年(1854年)12月、山口県熊毛郡・田村家の次男に生まれる。文久3年(1863年)、9歳の時に上田信義の養子として入籍し、信義の死去に伴い20歳で家督を相続した。

茂雄氏は陸軍に入り、明治27年の日清戦争では陸軍一等獣医監(少将相当)、明治37年日露戦争では大日本第5師団獣医長として従軍し、その功績により叙勲している【写真参照】。

大阪在住時は陸軍大佐として宮内大臣主催の夜会・晩餐会等に招待されている。

晩年は松山の連隊に所属し、退役後はその松山で民間会社の社長を務めた。

茂雄氏の曾孫にあたる誠一氏(京都在住)が語ってくれたところによると、茂雄氏は「山口高商の記念日や、セレモニーがある時には山口へ行っていた」という。

茂雄氏は大正5年(1916年)11月に、松山市内で没した。享年63歳。

墓は千秋寺。松山市内にある護国寺横にある寺で、そこに眠る。

もう一人の人物が横地石太郎氏。

山口高商の第三代校長だ。

つづく

(学23期kz)

松山護国寺近くの千秋寺
「上田家奥津城」

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